webマガジン特集企画・神戸を訪ねて②/西村先生インタビュー・後編

8_1.jpg▲県都物語について語る西村先生

―本といえば、県都物語が発売されましたね。
 この県都物語は結構売れているらしいんだよ。最初は3000部刷ったみたいだけれど、ちょうど2ヶ月で重版だった。3月15日に出て、5月半ばには全部売れて。ということは、このようなスタイルは結構支持されるのだなと感じました。今まで本をたくさん書いてきたけれど、書くことと本が手に取ってもらえるというのは全然違うことなのね。もう手から離れちゃってるから。僕が売り歩くわけでもないし、講演で売りつけるわけでもないので、どのように広まって行くのか、全くわからない。どういう風にみんながこの本にたどり着いて、買ってくれるのか、どのくらいの影響力を持つのか、なんて。本は個人の世界を超えているよね。
 もしかしたら、今回の出版社の有斐閣は法律系のところだから、本がおかれる場所がいつも書いている本とは違うところだったのが影響しているのかもしれない。例えば、建築系の本を多く出している学芸出版・鹿島出版などでもいろいろな本を書いてきたけれど、そのような出版社から出た本は建築とかまちづくりとかの本棚で売られることになる。そうすると、そこに行く人の目には止まるけれど、それ以外の人との接点はないよね。多分そういう意味では、県都物語は社会学系の人たちが見るような棚にもおいてもらっているのかなあ、とも思っています。
 ただ、書いている途中、とても楽しかったけれど、県都物語と題している以上取り上げているのはある程度以上の大きさの都市であって、それ以外の都市のことはかけないなあと思っていた。それで違う切り口で取り上げると、またいろいろな都市の物語がかけそうだな、と思い始めていた。例えば小さな城下町だったり、小さな盆地の中心都市だったり、軍港・港町…。それもまたいずれ書きたいです。
 出版といえば、つい最近、『造景』という雑誌が来年復刊するかもしれないという話があって、その相談に乗りました。みんな見たことないかなあ、今から10年以上前だけれど、『造景』は僕らにとってはとてもインパクトの大きい雑誌だったのね。もっと前、僕が若い頃は『都市住宅』っていう雑誌だったんだけれど、『都市住宅』にしろ『造景』にしろ、その時代の都市・建築を体現するような雑誌だった。『都市住宅』は植田実さん、『造景』は平良敬一さんというかたがそれぞれ編集長を務めていたのだけれど、彼らの傑出した、ユニークな感覚が表に出ていた。『造景』で副編集長をやられていた八甫谷邦明さんはのちに出る『季刊まちづくり』の編集長で、僕はよくこの雑誌に寄稿していたんだよ。今は休刊しているけれど。本当にたくさんの文章をタダで書いていた(笑)。
 それで、『造景』が復刊するかもしれないということになって、そうしたらそこで『季刊まちづくり』の続きで何か書こうかと思っています。『造景』は年に1回ペースの発行になると思うけれど、そこに長いまとまった文章を出して。そんなことを考えています。これからの執筆のエネルギー、原動力になると思って。

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―県都物語の反響は届きますか?
 講演の反響というのはすぐにかえってくる。新聞とか雑誌でばっと広まって、それでばっと消える。リアクションがとても短期的なんだよね。それに比べて本というのは読まないと内容がわからないわけだから、リアクションに結構時間がかかる。普通は5年、10年のスパンで浸透して行くものだと思っている。だから、まだあまり実感がわかない。ただ、講演でいろいろなところに行くと、僕の本を読んでくれた人がたくさんいて、内容を覚えてくれているのがわかる。そうやって実感していくことが多いんだよね。
ただ、この県都物語はそれとは別の側面があると思っている。47の都市について書いてある本だから、それぞれの市役所の人なんかは自分のまちが書いてあるということで結構読んでくれているらしい。そういう形で、行政マンやまちの人が読んでくれているのかな。
 そうやって読んでくれた人の声を聞くと、どうも自分たちとは物の見方が違うということがわかる。僕は、もしここに駅がなかったらまちはどうなっていたのだろうか、どうしてこれはここにできたのだろうか、というようなことを考えながらものを書いているわけだけれど、そこに住んでいる人はそれがそこにあるのを前提にいろいろなことを考えている。特に行政の人は、それらを当たり前の前提において行政課題の解決を考える。そこが一番のものの見方の違いだね。
 ただ、やはり都市を書くのは怖い。全ての都市の全てのことをわかることはあり得ないから、こっちが知らないこともある。そういう僕の知らないことについて、地元の人からコメントをもらうこともあるし、勉強にもなる。知らずに書いていたのではないか?って怖いこともあるけれど、それを言ってたら何もかけないから。えいや!ってやらなきゃいけないところはあるよね。そのまちにとっての常識もあるし、まちの人が持つ、その都市に対する共通のイメージなんかはなかなか外から見たのではわかりにくいところもある。まちを見続けているとわかってくることも多いけれど、わからないこともたくさんある。例えば神戸だと、高架線の北と南で全然イメージが違う。高校時代に神戸に暮らしたことのある人なら、北側、高架より上には全然行かない。そういう人はわかってるんだよね、なんとなく妖しげな雰囲気があるってこと。でも外から見て、パッと見たときにわかるかというと、なかなか分からなかったりする。ほかのまちでも、地図で見ているときには飲み屋街がどこかわかりづらいけれど、実際に行ってみると昔の街道筋がすごいピンク街だったりとかもする。そういうダイナミズムさなんかは実際にいったり、あるいは地元の人に直接聞いて見ないと分からないことがあるから。


―出版までの苦労はありましたか?
 さっきも少し喋ったけれど、有斐閣は法律関係の本を多く出している会社なんです。とても古くて歴史のある本屋で、明治10年くらいにできたのかな、岩波よりはるかに古い。編集が法律と法律以外というように別れているのね、確か編集一部と編集二部だったかな? だから僕の本は「その他」の方の編集者が担当だったはずです。何れにせよ、どちらの編集も普段は社会・人文的な本を作っているわけだから、基本的に本に図面が入らない。図表・図版はごくわずかで、著者は文章を書くだけ。僕たちの世界の本作りと全く違っていた。だから僕が持っていった図面をレイアウトするのがとても大変で、いつもの3倍4倍の労力がかかって大変だったと編集の方は言っていました。僕らの世界では地図や図面がとても重要な意味を持つけれど、彼らにとっては図面はもっと小さなイメージだったみたいで、レイアウトを直してもらうこともあった。そういう意味では、人文系のところと僕たちのところでは結構感覚が違う部分もあるんだと感じました。

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▲県都物語を改めて開きながら、執筆当時の思い出を語る

 

 

―こちらに来て、神戸のまちや芸工大にどのような印象を持つようになったのでしょうか?

 実は全然まちを歩いたとは言えないんです。ただ、三宮の印象が少し変わったかな。すごいごちゃごちゃしてるじゃない、三宮って。どこを歩けばいいのか本当にわかりにくかったけど、地下に入ればいいんだって気づいて。さんちかだっけ? それでここまでの電車の行き来は少し効率的になりました。それくらい(笑)。ただ、地下で動線を解決して地上はそのままというのは問題があると思うけれど。でも、これから再開発が起きるんだよね。

 雰囲気はやはり東京とは違うかな。地下鉄ひとつとっても、みんなが余裕を持って生活しているような気がする。電車の座り方などでも、余裕があるのがわかるよね。もちろんラッシュ時に三宮方向に向かう時は混むけれど、東京ほどの密度感ではない。

 時間が取れたら、まちの中はそれなりに歩いて考えて来たけれど、六甲山やそのうしろ、郊外を全然見れていないから、そっちを見に行きたい。もっと神戸全体を見て、広域的にしなければわからないこともあるはずだから、そういうことをやらなければならないよね。

―芸工大はどんなところなんでしょうか。

 ここは名前の通りものづくりの大学で、見てて面白いよ。環境デザインのところは僕らの世界に近いのだけれど、そのほかにはプロダクト・インテリア・ビジュアルデザイン・グラフィック・イラスト・映画・漫画・アニメ・ファッション・ジュエリー…。いろんな学生・先生がいる。大学の裏の方には工房もあったりするよ。割とアート系の人も多くて、みんな何かしらのモノを作っているから、そういう世界では口だけで言ってもしょうがない。これは僕たちの世界にも近いところ。現場に行ってそこに対する提案ができなければ意味がないのと同じ。それのもっと先に行っている感じかな。いくら口で屁理屈を言ったって、できたものをみれば、「なんだ、こんなものか」ってすぐにわかってしまう。論理だけで武装するような学生も先生もいなくて潔いね。

 ただ、ここはデザインが中心なので、純粋なアートとは少し違う。アートは自分の内面的なものを表現するけれど、デザインはユーザーがいるわけで、社会に対して貢献しないといけないし、作ったって使われないと意味がない。社会との関係で自分のやってるものを説明する。なんでこんな形をしていて、社会にどうして必要なのか。そういう意味で社会に向き合うということをモノを媒介にしながらやっているというのは、少なくとも僕にとっては居心地がよく感じられる。

 それと、もう一つ、先生が100人くらいの規模だというのがいいよね。ちょうど先端研と同じくらいの人数かな?先端研の所長をやっていた頃の経験からすると、それくらいの規模感だとみんながみんなをわかるくらいの距離。家族的な世界。東大で全部の先生と会っただけで挨拶しているわけにはいかないし、そもそも全員の先生を知らないけれど、ここならそれができる。それも、居心地の良さにつながっているような気がします。

 僕はそもそも東大を退官して、また大学に行くつもりはなかったけれど、もし行くとしたら、その時はもっと規模感が小さくて、東京ではないところがいいなあと思っていたから、その意味では楽しくやっています。

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▲神戸芸工大、西村先生の教授室へ向かう途中の階段踊り場で一休み。緑がとても近い

 

―神戸芸工大と東大では学生も違いますよね。

 ものづくりの場合、学生の間でも、作ったものが売れたりする。展覧会とかやって作家になっちゃうような人もいる。発表会もあるし、学生自身が自主的にやってたりもしている。そういう社会的な感性が鋭い学生がいると、先生の方も自然とそうなって行くよね。学生はみんな若いだけに、いろいろなことをフラットに吸収していっている感じ。

 一方で、我々の世界だと、確かに学生のフレッシュな感覚は確かに大事だけれど、やっぱり経験も大事になってくるんだよ。各地へ行って、世界を見て、現場にいることが経験になるわけだから、若い人には生きて来た時間の長さ的に難しい。そう改めて考えると、年を重ねることがあまりデメリットにはならない分野なのかなと再確認するよね。ずっと現役でいられるという意味では、いい分野だと思うよ。

 ただ、僕たちの分野は、年齢によって都市の見方に断絶があるとも言える。例えば僕が大学を受験するとき、まだ本郷通りには市電が走っていた。だからその景色はいまでも思い出すことができるけれど、君たちはそもそもその風景を想像することができないよね。僕もまた上の世代とは断絶がある。僕が助教授の時に教授だった渡辺先生には戦争体験があって、東京大空襲で地面に伏せて戦火を逃れたという実体験があるけれど、僕にはそれがない。そんな経験があるかないかで都市をの見方もきっと変わってくる。今はこんな風に世代をまたいで自然に話しているけれど、ある種の記憶は断絶している。そう考えると不思議だよね。

―今日は長い時間ありがとうございました。

 色々と喋ったけれど、今日はわざわざ来てくれてありがとう。これから神戸のまちを歩くのかな?神戸は広くて、まちもいいけれど山の上には農村もたくさん残っているし、この芸工大自体も吉武泰水先生が作ったデザイン的にも面白い建物だから、いろいろ見て回って、楽しんで来てください。