緊急トーク・イン「どうするどうなる 丸の内のスカイライン」

パネリストの意見


伊東孝氏のご発言

 いままで皆さんが色々お話しいただいて、お話ししたいことというのはだいたい整理されたと思うんですが、それをちょっと、違う観点からつけ加える形で、この美観地区の歴史や景観、住民参加のことについて私が考えていることをお話ししてみたいと思います。

美観地区の歴史と景観

 個人的には、丸の内の美観論争というのは学位論文でやってて調べたことはあるんですが、美観地区という制度を取り入れようとしたもともとの発想というのは、宮内庁がきっかけなんですよね。なぜかっていうと、関東大震災以後、まあ東京にもかなり被害があるんですが、この丸の内地区も、この間東大震災以後にでかい建物が建ち始めているのです。先ほど二瓶さんの方から一丁ロンドンの話とかニューヨークの話とかありましたが、あのときはまだ煉瓦が中心で、家を建てるときは煉瓦が中心でせいぜい3階立て位でしたよね。それが関東大震災以後、煉瓦街を取り囲む形で、丸ビルだとかそういったものが31mという形でだんだんとたち始めてきたのですね。で、その警視庁の望楼問題なんです。皇居の前あたりに高い建物が建ち始めた、10階近くのやつが。これはちょっとやばいよということで、宮内省の方が内務省に、こういう皇居の近くにある建物をつくるときは相談してほしいと申し入れをしました。申し入れといってもそんなに簡単なものじゃないです。警視庁だからできました。それを受ける形で内務省とか、内務省の役人とか、都の、東京市の役人とかが加わっている委員会があったんですが、そういったところが提案を出したりして、それで一つの対策としてでてきたのがこの美観地区であったわけです。

 ですから当時は、皇居周辺の美観を守るきっかけを作ったのは、宮内省であった、そしてそれを法制度的にうまく使ってきたのが内務省、そして都市計画局の政策の中に取り入れて昭和8年に制定されていく訳です。

 戦後の美観論争というのは、一つは東京海上火災に始まるんですが、その時にですね、なぜ東京海上火災のビルで美観論争がでてきたかというと、今度は三菱の方としては、三菱の煉瓦街が崩壊して、それでとりあえず、丸の内改造計画で再開発がありましたよね。その再開発を三菱が終えたところに、実は、東京海上火災がドンとでてきて、いわゆる目立つ地域としてでてきたものですから、三菱地所としては、三菱の方としてはやばいということで今度は、とりあえず三菱と東京都の方が東京海上火災に対して、何とか抑えたいなと。せっかく三菱は自分たちで再開発が終わったのに、東京海上火災が勝手にあんなでかい建物を建てちゃうんで、商品価値が落ちるということで頑張ったんじゃないのかなというふうに言われているわけです。

 今回丸ビルを壊してまたそれより高い建物がドンとくるんで、またそれが美観論争という形で後にそれが位置づけられるかどうかわからないんですが、そういうふうに一つの時代が終わるときにいろいろと問題提起がでてくるわけですね。丸の内の美観論争の時は、東京海上火災の時はいったい誰が問題提起をしたのかというと、まあ最初はさっき言ったように東京都と何かあったんですが、最初の頃はそれは、美観論争という形で学識者も加わったり市民の方も加わったりしていたんですが、だんだんとそれが政治的な話になって、最終的には佐藤首相まで出て来ちゃう訳ですが、そういったきっかけになってきたわけです。

市民運動として

 今回こういった問題を考えてみますと、こういう形でこの問題が非常に広い地域で、市民に考えようというか、一人一人がこの問題について考えましょうという形ででてきているので、そういう意味で問題の出方としては良いなあというふうに、みなさん、山本さんがおっしゃったように、一人一人が考えましょうよという形で今こういう会が開かれていますし、西村先生が企画したのは、みんなで考えましょうよといった動きだと思うんですよね。それはやっぱり、先ほどから日本の顔・世界の顔という言い方がされていますが、何しろここは基本的には、土地は三菱のものかもしれないけれども、やはり日本の顔・世界の顔なんだから、みんなで考えていこうというそういう姿勢が非常に大切だと僕は思うんです。

 我々はたまたま今ここで発言していますけれども、できればここに来ていただいた方というのはみなさんそれぞれ関心があると思いますので、できれば今後ともこれを一つの課題として、運動をどういうふうにしたいかっていう形で僕は考えていってほしいと思うんです。

 もちろん私自身は、丸の内の美観論争が起きた頃にですね、東御苑のところにいって、昔の天守閣もあった東御苑のあの高いところに上るとですね、非常に、あの丸の内に立っている建物というのは、壁になっているんですよね。この都市空間というのは、奥行きが望めるっていうことが非常に大切でね、基本的には高さを高くしてしまうと、空間的に奥行きがなくなってしまって皇居周辺に壁をつくってしまう。これは僕はいけないなと思うんですね。

 美観地区っていうのは、皇居だけじゃなくて皇居周辺にかけられているんですよね、ぐるっと。奥行きは違いますけれども。ですが、なぜ丸の内だけが問題になるかといったら、やはりそれはみなさんが関心があるからだと思うんですよ。本来は霞ヶ関、これもやっぱり美観地区なんですよ。それで僕なんかは、大手門のあの合同庁舎がぽんと建ちましたよね、ああいうことになぜみんなは手を挙げないかと思ったんですが、やはりあそこは美観地区じゃなくたって、関心外じゃないですか、関心ないからこういう形で運動も盛り上がらないんで、これについてはこういう形でみんなが盛り上がるっていうのは、やはり何らかの形でみなさんが関わりたいと思っているから手を挙げるんだから、それはやはりそういった動機っていうのは非常に大切にしたいなと思うんですね。繰り返しになりますが、みなさんこれを機会におおきな運動にしていった方が僕はいいんじゃないかなと思うんです。

 それから三菱の再開発が昭和30年代に終わったときに、デザインが出揃ったときに、先ほど建築家が云々っていう話がでましたけれども、どの程度建築家っていうのは三菱の煉瓦街に対して、反対運動したのかっていうのは、僕はやっぱり疑問で、ほんとはああいった名建築を残せば良かったんですよね。あの辺はほんとちゃんとしっかりした会合を持ちながら運動やっていけば、今の形っていうのはまた違ってきたんじゃないかと思ってます。

 少なくとも三菱が一番最初に土地を買うときには、政府の方から変な建物を建てるなっていうことで十分規制を受けているんですよ。で、それが高度経済成長の時も、この再開発が終わったときは、それこそ安普請の建物ばっかりたってしまうわけですよね。でそれでいて高さだけは31mを守っていたけれども、ほんとはそういったところでも声を出すきっかけは本来はあったんじゃないかなと思うんですが、まあその辺はまだ、言いようによっちゃあ言い方悪いかもしれませんが、そういった気持ちが我々に届かなかったということで、歴史的に言うとやはりいくつか我々は失敗してきたんじゃないかな。だけども、今回はやっぱり愚を繰り返したくない、ないしはみんなで考えていこう、そういったところで、問題提起を含めてとりあえずお話をとりあえず閉めたいと思います。


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