緊急トーク・イン「どうするどうなる 丸の内のスカイライン」

パネリストの意見


進士五十八氏のご発言

 農大の進士と申します。今、小林さんが歴史の話をされましたけれども、私はそういうふうに歴史的にものを見るということは一つ大事なことだと思います。

それから私は造園家ですから、皇居を含めたオープンスペースと建物の関係みたいなものを是非一度考えてみたいですね。そしてもう一つは手続きの話があるんだと思うんですね。いったい誰がこういうことを決めるのかということですね。手続き上の問題というのは、先ほどの西村先生のこれまでの経過の話の中にもありましたが、マンハッタン計画を出したらちょっと、みんなに袋叩きにあったので、今度は手堅くやろうというふうにですね、地権者が中心に丁寧に勉強会をやってきたそうです。十数年もかけているのですからそのことそのものは意味があるわけですが、ここは地権者だけの地区かということですよね。ですから、東京の中心というのは、まあ今は首都としてですから、首都というのはいったい誰のものか、国民全体のものです。首都移転という話も一方でありますが、首都が移転した後はどうするのかという話もあるわけですね。まあ、そういうふうに大きくとらえて、地権者だけで考えていけるような場所じゃないというような自覚が必要だと思うんですね。そういう意味で手続きの話もあるんじゃないかと思います。

日本・東京・丸の内

 そうですね、まず気楽に言いますと、マンハッタン計画という名前が良くないですね。あのときに思ったんですね、ここは東京だよと。全く違う敷地だということです。

 大手町、丸の内、有楽町、日比谷と。(模型を見ながら)例えば、日比谷は昔シビヤって言った訳ですからね。海苔の栽培に使うのがしびた場所だった、つまり海で入り江になっていて非常に浅瀬だったからシビヤと言ったんですね。それが日比谷になった。マンハッタンというのはニューヨークのど真ん中にある。マンハッタンは岩でできている。島全部が岩でできている、岩盤でできているんですね。こっちは海ですから、ズブズブっと入っていくわけですね。日比谷公園の樹なんかも植えて現在みたいになるまでは大変だったそうですね。地下水も非常に浅かったから、樹も根が下へ入らない。横に這うしかない。それぐらい条件が良くないかった。で、もちろんそれを克服したのは近代の建築技術で、技術者が頑張ってそういうズブズブの液状化するところでもでかい建物がつくれるようになったんですね。で、つくれるようになるとやたらにつくるというのもまた技術者なんですね。もちろん企業がそれに金を出す訳なんですけれども。営業として必要だというビジョンがあって、それをつくるのが技術であったりお金であったりすると思うんですが、今はその手段である方が先に行ってしまいましたよね。利益もあるしお金もあるからつくっちゃおうという感じがちょっとするんですよね、そこが気になるところであります。

 我々がいったいどういう都市を東京につくりたいのか、特にこの歴史と自然のある都心をどうするのかということを、やっぱり考えなきゃいけない。そうすると、地権者が専門家として、それはそれでスタディをやられたらいいんですけれども、少し幅を広げてですね、この(今日のシンポジウムの)様に議論をするのもいいでしょうし、それからコンペなんて方法もありますから、こんな東京にしようなんていうのを全国的に募集したらいいかもしれません。

 もう一つの言い方は、マンハッタンじゃない、どれくらい東京であるかということです。一国の首都をつくるのに、よその国の、首都じゃありませんけれども、都市をモデルにしたというのは、少々不見識だと思ったわけですね。つまり、それくらい未熟だった、都市というものに対する見方が。日本の建築家達というのはこれから.....建築家って言っちゃいけないですね、ここにも建築家がいらっしゃいますから。未熟であると言える。首都というのはそれぞれの国や文化を代表する顔ですから、景観というのはそれなりに計画されたものですから、まさにこの新しい世紀にはいるときに日本はですね、お金だけではなくて精神面でもリーダーシップを発揮できるかどうかっていうのは、そういうものに対する見方だと思うんですね。ですから、自分たちの街はどんな街をつくるのか、それも東京の街をつくるんであってですね、マンハッタンをつくるのではないわけですね。よその国の人に「頑張って液状化するような沖積世地につくるようなことはしない」なんて、そんなつまらないことを言っているわけではないんですね。

美観と風致 都市のアメニティ

 次に、オープンスペースとの関係で見てみます。まず31mというのは百尺という単位からきたわけですね。百尺という数字を基盤に高さが決まっているというのは実に日本的ですよね。尺貫法ですから。で、そういうスケールを美観地区の、美観地区的なものの考え方の中で捉えた。要するにそれは、江戸城の風致と丸の内をつくるときの人間の業でつくる美観、私はこの言葉は両方「アメニティ」の日本語訳だと思っているのですが、非常に人為的にアメニティをつくったものが「美観」である。自然のアメニティのことを「風致」と呼んだ。そうやって美観とか風致とかいう言葉を計画の中身に入れながら、この東京は戦前からの長い間、専門家達が努力をしてやってきたんですよね。都市美協会やなんかもつくってやってきた。で、それを今の技術屋さん達はどういうふうに思うんだろうか。つまり、自分たちの、同じ職能の先輩達が、頑張っていい街をつくってきたんですよね。それをどんどん容積率アップをしながら同じ土地に同じものができてきたわけですけれども、いったいそれが、そういうものに貢献すると言ったら変なんですけれども、それをなおざりにしてしまうと、そうやって長年つくってきたところにアーキテクトっていう職能がある。で、そのアーキテクトの職能史を踏みにじっているかもしれない。皇居の周辺の、特に皇居外苑というのは紀元2600年記念というので国民的な労働奉仕みたいなものがあって、これだけのオープンスペースをつくったわけですね。まあ、紀元2600年がいつという話はしませんけれども、つまり、東京の顔としていろいろな形で作られてきて、今の皇居はたくさんのボランティアによって緑が守られている。掃除がされているわけですけれどもね。この歴史と自然のあるオープンスペースと建物群とのバランスをどうとるのかという話であります。

200/150/100/31

 先ほどからの、あの高い200とか150とかいうのはですね、「概ね」とかね、最初は30だったのに次は100にして、少しいい言葉書いといて、もうちょっといくと200までいいという...これけっこう詐欺的な行為ですよね(笑)。いきなり200と言うと反対ありますから、場所によっては100ぐらいでいい、もうちょっと違う場所なら150でもいいし、時によっては200までもいいって言うとですね、結局どこまでもいいよっていう話なんですよね。今申し上げましたように私はこの丸の内を、地権者の丸の内地区ではないと考えています。あるいは大手町・丸の内地区っていう形じゃなくて、ひょっとすると、首都移転というのは大きな流れにもなっているのですから、霞ヶ関界隈はどうなるんだろうか、それから、ぐるっと回って半蔵門から含めて靖国の方まで皇居の周辺全体がオープンスペースができていくわけですよね。で、そういうことを大切にするべきだと私なんか思っているわけですよね。ほんとの東京の中心をつくる、それも世界都市の中心をつくるっていうのは、それぐらいのことをやらなきゃだめじゃないでしょうか。ロンドンがですね、セントラルパークとかハイアットパークとかリージェントパークとか、ずーっとグリーンベルトでつながっていて、非常に格調の高い都市をつくりましたよね。イギリスというのは経済があんまりうまくないっていうこともありましたが、結局安定した国になっています。そういうところを見るとですね、やっぱり敷地だけで容積を集めて建物つくってそれでリーダーシップをやるっていうような狭い見方じゃやっていけないような時代になってきたんじゃないでしょうか。そういうときに、敷地だけでやるとか考えないで皇居とその周辺、ひょっとすると霞ヶ関の再整備といいますかそういったことまでターゲットにして、さっき言いましたように、官僚に変わって国民のみんなが深く考えていくと。それぐらい時間をかけてもいいプロジェクトではないかと、そう思っているわけであります。

水平型都市と垂直型都市

 私は前から「水平線と垂直線」ということを言ってるんですが、丸の内再開発計画の絵を見ると、マンハッタンを目指そうという気持ちが出ていたと思うんですよねこの絵には。つまり東京でマンハッタンを目指そうというふうに88年に思ったと思うんです。それは戦後の日本の都市づくりというのはやっぱり西洋を見て考えていた、今も考えておられると思うんですよね。私はそれは「垂直型都市」なんだと思うんですよね。垂直にこう、まだ伸びている。ついこの間、安藤忠雄さんが新聞に書いていて、まだ日本は国土が狭いから立体的に都市を使わなくちゃいけないとおっしゃっていた。東京のここだけを見ていると狭いと思うんですよね。私は日本中歩いていますから、日本の農山村地に一回行ってごらんなさいと思うんですよね、安藤さんに。私は彼の建築は素晴らしいと思っているんですけれども。申し訳ないですけどね、建築の悪口ばっかり言って(笑)。私の癖ですから聞いていただきたいんですが。どうもね、建築家は高いものを作りたがるんですよね。そして、それの理由は国土が狭いからって言うんです。日本はうんと広いです。過疎で困っているところがうじゃうじゃあるんです。これは本当ですから。そういったものをトータルに考えなければいけないんではないでしょうか。

 建築の歴史で言えば、日本の建築は全部水平型に展開したわけで、桂離宮なんか象徴的ですけれども、温泉の旅館だってそうですが、奥へ奥へと広がって水平に展開してきた。人間にとっては水平に移動する方が楽です。体にもいいし、大地とも接触していますし、しかもですね、だいたい樹の高さぐらいまでの建物じゃないと人間は落ち着かないんですよね。仕事に夢中になっているから、気にならないでみなさん高層ビルで働いておられるんでしょうが、いずれみんなノイローゼになるだろうと私は思ってます。(笑)やっぱり樹の高さ以内でずーっと水平性を満たしてきた、これが2000年の歴史なんですよね。ところが、急にここへきて、マンハッタンのように岩盤にできている都市を真似をして、超高層ビルがたくさん出てきた、それが戦後の数十年だったんだと思います。私はもうそろそろ、そういう意味での日本の都市づくりというものを考えなければならないと思っています。我々はアメリカしか都市のイメージを持たなかったんですが、ヨーロッパの都市はそんなに高くないです。みんな水平に展開してきたんですね。そして、自然とか緑とかとの共生というようなことをやってきたわけで、現在の丸の内の議論の中で”そういう時代の首都づくり”という観点がストンと抜けているというのが最大の批判です。


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