「美観論争」東京海上ビルの超高層改築

(昭和41(1966)年10月)

 昭和41(1966)年10月、丸の内の東京海上火災株式会社が、旧い建物を取り壊して、超高層の事務所を建築しようとして建築申請をし、当時の東京都の建築主事がこれを「不許可」にしたのがコトのおこり(新建築物の設計者は前川国男)。

 前川国男の当初案(30階・127m)

 当初の改築案では地上30階建て・127m。現在では珍しくないが、当時、周囲の建物は戦前の美観地区の指定と建築基準法の高さ制限(昭和39年以前)の結果「百尺」(31m)の高さで揃っており、「皇居の前に超高層は相応しくない」「皇居を見おろすのは畏れ多い」「皇居からの景観を損なう」などの反対意見、「高層化は世界の趨勢」「高さが揃っていればいいのか」といった推進派の意見が真っ向から衝突し、議論が巻き起こりました。

 申請を受けた都は新築案を「建築法規違反につき不許可」とする一方、急遽「美観条例」を作り、戦前指定されその後様々な経緯から運用の停止していた(参照)美観地区の復活をはかろうとしたのですが、「美を規制できるのか」「都の感覚は旧い」との批判や、都議会各会派の足並みの乱れで実現せずに終わります。

乱立する高層ビル想像図(都作成)(S41.11.20(朝日))

 その後翌42年6月、都の「不許可」に対して建築主・東京海上が、都建築審査会に不服の審査請求を提出。同9月、審査の結果、都の建築主事が争いに負けるという事態になり、騒動は振り出しに戻る結果となりました。また、佐藤首相が「超高層ビルが皇居前の美観を損ない、国民感情の上からも望ましくない」と談話を出し、美濃部革新知事と衝突する一幕もありましたが、結局国の斡旋などもあって、同45年9月、施主・東京海上が折れ、当初の計画の30階・127メートルを、25階・99.7メートル(約100メートル)に修正・建築することで落着した・・・というのが当時「美観論争」として新聞紙上を賑わした事件の経緯です。(新建築物はこの修正案で、昭和49(1974)年2月28日竣工した)

 以降この周辺の建物の高さの自主規制値は、不文律として100メートルとされるようになったのですが、この数字に落ちついた理由は不明です。

  いろいろと議論百出で紛糾したものの、瑣末な法律論議や政治闘争になってしまい東京の都市景観がどうあるべきかという点に話が進まぬままの妥協で、その問題は今日まで先送りされているかたちです。残念ながら、当時の東京の市民はそれほど東京のスカイライン全体に関心が無く、議論は東京海上対東京都、あるいは建築家対都市計画行政官というようなかたちに終わり、市民的なレベルでの議論のかたちにはならなかったのが惜しまれます。それにしても、東京タワーのときには問題にならなかった都市景観が論議されたことは、画期的なことでした。

 また、この海上ビルの超高層認可を待っていたかの様に帝国ホテル、三和銀行などがこのあと一斉に取り壊し・改築され、東京のスカイラインは大きく変貌していくことになります。

建築家協会製作の模型(S42.9.27(朝日))

現在の海上ビル(手前は新丸ビル)

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