超高層時代と霞ヶ関ビル

(1960年代)


【超高層建築】

 今日の建築基準法の前身・市街地建築物法は、関東大震災の教訓を生かし耐震設計法が規定され、市街地の建物の高さは100尺(31m)に制限されていました。現在、丸ビルに代表される東京丸の内の都市景観はその結果として生まれたものです。

 昭和30年代なかば、当時の国鉄の丸の内本社屋を24階とする計画案が想定されたことがあり、それが日本の超高層への引き金となりました。構造設計面からの技術的な可能性が検討され、従来の剛構造ではなく、「柳に風折れなし」という柔構造がが導入されることによって、37年半ば頃には地震大国・日本においても31mを越える建物も実現可能であることが確認されるに至りました。

【容積制】と【特定街区】

 高さを高くして多くの人々が利用することになると、建物周辺の道路や電気、ガス、水道、下水などのインフラがパンクする懸念があります。そこで高さ制限を撤廃する代わりに、「容積制」という建築全体の容量を抑えるという手法が検討されました。高さ制限の撤廃に代わる制度について建設省からの諮問を受けた建築学会では「容積率を採用することによって高さ制限の撤廃をしてよい」という答申を行い、これを受けたかたちで、昭和38年(1963)7月、建設省は建築基準法の改正がされました。これによって容積制を採用した地区では、その容積の範囲内なら、建築物の高さが31メートルを超えてもよいことになったわけです。昭和39年(1964)の10月には、東京の環状6号線の内側の地域全体に、容積制を導入する告示が行われました。

 またこれとほぼ時を同じくして、「特定街区」という制度も生まれました。この制度では特別に指定した街区では、周辺に広い空き地などを確保すれば、斜線制限など建築物を高くするときに障害になる制限を解除しようというものです。

 また、特定街区制度は都市計画決定を必要とするなど、若干面倒な嫌いもあることから、同様の趣旨の制度として、より軽便な「総合設計制度」ものちにできます。

 以後、容積制や特定街区といった制度を運用して続々と超高層が誕生しますが、その本格的な幕開けとなったのは、43年4月の地上36階地下3階の三井霞ケ関ビルの完成です。


「霞ヶ関ビル」

(昭和40(1965)年2月着工・昭和43(1968)年4月完成)

 高さ100メートル以上を超高層ビルとすると、その第一号は霞ヶ関ビルです。

 霞が関ビルは、はじめは敷地16300平方メートルに、普通の31メートルの高さで9階建てのビルを建てる計画でしたが、38年には上記のように建築基準法などの関係法規が改正されて超高層の計画が検討されました。結果地下3階、地上36階建て、高さ147メートルという現在の姿になったわけです。

 工事は昭和40年(1965)2月に着工し、37カ月をかけて、昭和43年(1968)4月に完成。我が国の超高層ビル時代の幕開けでした 続々と超高層ビルが林立し東京のスカイラインは全く変貌することになります。

 霞ヶ関ビルの設計に当たっては、技術面からは詳細・入念な検討が重ねられましたが、都市景観の点からの論議はほとんど行われていません。


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