皇居周辺の美観地区指定
(昭和4(1929)年〜昭和23(1948)年)
美観地区とは・・・ 市街地の美観を維持するための制度として、市街地建築物法(現在の建築基準法の前身・「旧法」ともいう)で定められた制度です。都市近郊の自然環境を保全しようとした都市計画法の風致地区と一対になっています。旧法では地区の具体的な運用に際しては美観審査会が設置されるようになっていましたが、現在では都市計画法第9条、建築基準法第68条に規定があり、運用に際して別途条例が必要とされています。指定例として他に大阪(御堂筋・中之島など、1934)・伊勢(宇治山田、1939)・京都(1972)・沼津(条例による指定、1953)があります。 |
美観地区の指定の契機・・警視庁望楼問題
震災復興後、市街地の本格的再建が進む中、美観地区が指定される一つの契機となった事件として警視庁庁舎の望楼問題がありました。
この時期、鉄筋コンクリートが普及し、比較的高層の建物が容易につくれるようになりました。こうした中で、皇居周辺に高層建築物が建築されると皇居内が一望に下にのぞかれるということがまず問題となりました。その最中、警視庁が桜田門新庁舎に10〜11階相当の高さの望楼を計画・新築しはじめたのです。
新築中の警視庁(→が問題の望楼)(「警視庁史」)
昭和4年9月の宮内省の事前協議要請(*1)、同11月、復興に当たって都市美の啓蒙に当たっていた都市美協会の警視庁望楼撤去請願書(*2)などにより、鉄骨がほぼ組みあがった状態であったにもかかわらず、警視庁の望楼は約10メートル短縮され、設計が変更されました。
(*1)お濠端に新たに立てられる建物については事前に協議を求めたもの
(*2)この請願書には皇居内の問題のみならず、官庁街からの議事堂方向への眺望や、望楼の意匠に関すること(意匠が卑猥であるとの意見)も問題とされている
都市計画の所轄官庁である内務省は、こうした経緯を踏まえ、美観地区を指定すべく、準備に着手しました。
準備作業では、関係省庁による協議会を設置し、美観地区指定の対象範囲の確定、建物の高さ制限の図化を意図しました。また、その運用に当たって公平さを担保するため、警視総監を長とする(当時建築行政は警視庁にゆだねられていた)美観地区委員会案が検討されました。そうして約三年間の作業を経た後、昭和8年3月都市計画東京地方委員会で決定、内閣の認可を経て同4月に告示されました。
運用に当たって、翌昭和9年(1934)、警視庁から美観地区内の高さ指定が公布され、地盤の海抜に合わせて建築物の高さは六段階(31・28・26・25・20・15メートル)に定められ、また宮内省の方針を踏襲し建築物のみならず工作物も事前協議の対象とされました。
この結果、のちの丸の内の百尺(31m)の軒線で整えられた優美な景観はじめ、皇居周辺の景観の骨格が形成されたのです。
しかし戦後の昭和23年、市街地建築物法施行規則の改正で「当分の間、美観地区既定を適用しない」と適用除外となり、さらに25年の建築基準法制定に伴って美観地区は運用条例を別途に定めないと運用できなくなりました。
こうした経緯を経て、宮城(皇居)外郭に指定された美観地区は、戦後広告物のみ禁止されているものの(広告物の規制に関しては昭和24年8月、東京都屋外広告物条例が制定され、美観地区内は広告物の表示・掲出を禁止する地区とされた)運用条例の無い地区指定がのこり、宮内庁による事前協議が形式的に残されて、現在にいたっているのです。