文学にみる丸の内の歴史的なイメージ:戦前編

〜丸の内を舞台とした文学、随筆から探る〜

 

 

  丸の内界隈は、日本の近代的ビジネスセンターの象徴として、小説や随筆に取り上げられてきた。特に丸ビルはその完成(1923年:大正12年)後から文壇人の注目も集め、しばしば小説の舞台ともなっている。(内田百間「東京日記」昭和13年、岡本かの子「丸の内草話」昭和14年など。)

 そして丸の内は威圧的・殺伐としたビル街というよりむしろ、風格はあるがどこか親しみのもてる街として登場するのが、特徴的である。

 そこで、高浜虚子のエッセー「丸の内」、内田百間(正しくはもんがまえに月)の短編小説集「東京日記」などを取り上げて、丸ビル成立後の丸の内がどのように映っていたのか、若干の分析を加えてみる。


1. 高浜虚子 「丸の内」

1927年:昭和2年(初出 東京日日新聞の連載「大東京繁昌記」)

【解説】

「大東京繁昌記」は、1923年の関東大震災から復興しつつあった東京の町の様子を、18人の作家が自ら由緒の深いところを散策してその印象を記したものである。

高浜虚子は近代俳句の大成者として有名な俳人であり、また小説も書いた。丸ビルが気に入り、建物完成前から「ホトトギス」の発行所に丸ビルの一室を契約した。周囲が和服姿の俳人と近代ビルとの不調和を笑うのも気にせず、「古いもの新しいものはだんだん調和していく」(本文より)と丸ビルライフをエンジョイしている。

「丸の内」は14のエッセーからなるが、その中で丸の内の風景への記述がある部分を抜粋する。

 

●丸の内の景観

虚子は当時の丸の内の景観をかなり大きな視点から明瞭に捉え、簡潔に記述している。 まず「帝都らしさ」について・・・

 

 京阪地方から上京する旅客は、横浜を過ぎて大森あたりから、漸く帝都に近くなったという感じがするであろう。しかしながらわい小な家屋が乱雑に建っておるのを見ては、これが帝都かという浅ましい感じもまたしないことはなかろう。(略)

それが漸く新橋を過ぎて、わが丸の内に入るとはじめて面目が改まって、やや帝都の帝都らしい感がして来るであろう。

比較的宏壮な建築物が整然としてある。今までに見てきたようなわい小なものとは選を異にしている。それぞれの建物の屋根は大空に聳え立っている。

 

・・・と、整然とした建物が醸し出す重厚な様を述べている。それは、周辺の小さい家屋とは敷地の大きさからして違う街区であり、経済の中心でありながらも統制のとれた街並みである。

また丸の内が多くの旅客や通勤客によって上から見られることも意識して、次のように述べている。

 

高架鉄道になった今日から見ると、是等の建築の屋根が一番問題になる。それ等の旅人はもとより、日々通勤する人の眼を知らず識らずに楽しませるものは、これ等の屋根の形状である。千篇一律のものでは飽く。俗悪怪奇な物は厭わしい。

 

 そして、丸ビルのような四角のものがあってもあってもいいが、また塔のようなものも欲しい、と続けている。屋根は(整然とした中にも)変化があった方が人の眼に楽しい、という考えは、ここの景観が誰のものであるかという問いに答えるものでもあろう。当時のデモクラシーの気風を反映したものか、「帝都」も皆の共有のものである、という虚子の姿勢がうかがえる。

また丸の内全体について・・・

 

東京駅を正門として、丸ビル等を玄関として、それから左翼に延びつつあるビルディング街、また右翼にもだんだん立ち連なろうとする大建築(略)

 

・・・という記述もある。虚子が当時の最先端のビルに俳句雑誌の発行所を構えたということは驚きだが、帝都東京、丸の内の「玄関」たる丸ビルが民間の賃貸ビルであるということが虚子の気をおおいに引いたであろうことは容易に想像される。

 

● 丸の内の将来像

 この当時の丸の内は、震災の爪痕と原っぱ時代の名残とで、まだまだ発展途上であった。バラックの官庁が立ち並ぶ丸の内の一角を散歩し、バラック官庁移転後に思いを巡らすのが以下の部分である。

 丸の内は昔からお城とお濠と曠野――草原――があることに相場がきまっていた。やはり曠野のままにして置くのもよかろう。

 が、又八階九階のアメリカ式のビルディングが立ちふさがりつつある三菱村の勢力が、ここまで延びて来てこの界隈一帯も大ビルディング街となるかもしれぬ。

東京駅を正門として、丸ビル等を玄関として、それから左翼に延びつつあるビルディング街、また右翼にもだんだん立ち連なろうとする大建築、それ等から推しはかって見るとこの一帯も長く曠野としての存在は許さないであろう。

今の丸の内は大きなビルディングが目覚しく突っ立っている。また現に立ちつつある。(略)けれどもそれ等の外には空地がまだ相当にある。またバラック建の粗末な建物がある。ガードの下に巣くうている小店もある。今の丸の内の文明は先ず新開町の田園の中に建物がぼつぼつ建ちはじめた位の程度である。これを立派な町に仕上げて、新丸の内街を作り上げるのにはなお相当の歳月を要するであろう。(略)

 丸の内が「三菱ヶ原」と呼ばれた原っぱであったことは、当時の作家達が強調するところである。そして原っぱからビル街へ転身の過渡期にあって、虚子は将来の「立派な町」である「新丸の内街」を具体的にどのようにイメージしていたのか。新しく大きいビルを歓迎していた虚子であるが、ただ何でも新しいものを賞賛しようというわけではなかったようである。

 

●丸の内の昔

最後に、仕事の合間に丸ビルで昼食を取りながら、江戸時代の丸の内に思いを馳せている部分を引用する。

 十一時半になると丸ビルの地階、一階、九階の食堂が皆開く。一階の西北隅の竹葉の食堂にはいる。(略)

海上ビルディングの建物が行幸道路を隔ててそびえている。すぐ近くには郵船ビルディングの大きな建物がのぞいている。

先刻見た古い地図の事が思い出される。それは、寛永、元禄、天保、文化、嘉永等数枚の丸の内の地図であった。その地図を見ると、古くからこの丸の内は大名屋敷がかず多く並んでいたものと見える。(略)

その一つの大名屋敷の大きさは今の丸ビルよりなお大きかったらしい。そうすると土塀をめぐらしたその大邸宅が並んでいたこの丸の内は夜にでもなったら定めて淋しい事であったろう。(略)

古き時代の人が持つ誇りは近代人が持つ誇りであり又後代の人が持つ誇りであらねばならぬ。

生滅々為して地上に棲息している人の記録は昔と今と余り変わりが無いともいえる。今行幸道路を隔てて見ゆる海上ビルディングのあたりは松平豊前が住まっていた(嘉永年間)。今海上ビルディングのあらゆる部屋にある文明と松平豊前の奥殿に篭もっていた文明とを比べたらばどちらに軍配が上がるかわからない。(略)

 

 最先端のビルディングで昼食をとりながら、丸の内の昔を想像し、謙虚に文明の本質を考察する。それは俳人虚子の個人的思索の結果に過ぎないかもしれない。しかしまた逆に江戸城の大名屋敷があったこの一帯は、土地の由来にもまた建物群にも、一俳人を惹きつけ考えさせるような歴史の重みとでも言うべきものがあった、ともいえないだろうか。


2. 内田百間 「東京日記」

1938年:昭和13年

 この幻想的な短編小説集「東京日記」では、或る日丸ビルが忽然と消えたのに、周囲の人々が全く意に介さない様子を記述している話がある。

 

 駅前の交番の横に立って眺めて見ると、月の懸かっているのは、丸ビルの空なのだが、その丸ビルはなくなっている。いつも見なれた大きな白い塊りがなくなったので、その後に夜の空が降りて来ているらしい。

 

そして主人公は次の日いつもどおりに建っている丸ビルを見て

今まで自分が知らなかったので、これだけ大きな建物になれば、時々はそういう不思議なこともあるのだろうと考えた。

 

・・・と結んでいる。主人公はちょうど「狐の嫁入り」の伝承を受け入れるように、都市の新しいフォークロアとして「丸ビルの神隠し」を受け入れるのである。日常に非日常を垣間見せるのが作者の作品の特色でもあるが、フォークロアが継続していく場所として丸の内界隈が取り上げられたことは、やはりこの時代の丸の内の特性を的確に捉えていると言えよう。

丸の内は「帝都」の経済活動の中心でありながらも、どこか「隙間」のようなものがあり、そこに人間らしさやある種の非合理性が生じる街だったのである。


【ここまでのまとめ】

 戦前の丸の内はビジネスセンターとして発展していく「帝都」の中心であったと同時に、文化人の散歩コースでもあり、また職場でもあった。時代の先端を行くサラリーマンやOLもいれば丸ビル見物のおのぼりさんもいて、オフィスあり地下食堂あり、というある意味で非常に東京らしい所であったのではないか。歴史に思いをはせ、あるいはちょっと不思議なフォークロアも生まれる、というようなゆとりもある街であった。

「帝都」の景観をつくっていた丸ビルも、民間人のオフィスであり商店街も入っていたことから、東京駅の玄関口として庶民に親しまれてきた。そして高架鉄道によって庶民は丸の内を一望でき、そのような視点からも景観を論じる声が上がっていたのである。

 


3.田山花袋 「東京の三十年」

1917年:(大正6年)

【解説】

「東京の30年」は、花袋が明治・大正の東京の30年間の変遷を綴った、一種の追憶記である。花袋は11歳で地方から上京してきて丁稚奉公を始めている。「泥濘の都会、土蔵造りの家並みの都会」(本文より)という、多分に江戸の雰囲気を残していた東京が、30年の間に変遷していく様子が描かれている。

「東京の発展」の章では特に、市区改正以降道路が広がり電車が走るようになった都心の大きな変化を、過去との比較を交え描写している。ここで丸の内に関しても、次のように言及している。

 

 丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に閉ざされているように思われた。何という相違であろう。今は濠の四周を軽快な電車が走り、自動車が飛び、おりおりは飛行機までやってきた。今ではさびしさとか陰気とかいう分子は影も形も見せなくなってしまった。宮城の松、その上に靡く春の雲、遥かにそれと仰がれる振天府、すっかり新しく生生とした色を着けて来た。


4.吉田健一 「東京の昔」

1973年:(昭和48年)雑誌「海」掲載

【解説】

1930年代の東京を描いている随筆。筆者は散歩が好きであったらしく、自分一人でいる時には「結局は町中を歩き廻っていた」(本文)、そして「少しずつ凡てが変わっていくのが感じられた。(略)ただそれは交代による推移だった」と述べている。その例の一つとして挙げられているのが、丸の内界隈である。

 又例えば日比谷公園のこれは今でもある花壇の一角に木の腰掛けがあってそこから向うの木の木立ちの方を見ると一本の椈の木が木立ちから抜け出ているのがその頃建った三信ビルの輪郭に配されているのが明らかにそれまでのこの公園になかったものを表していて、その公園はかつて芥川竜之介が寒山拾得の姿を認めたものと同じものだった。或いは宮城とお濠を隔てた所にその後に壊された帝室林野局の建物があってこれは褐色の化粧煉瓦を使っていても既に大正の安易な様式のものではなくて明治のものでもないのに一箇の建物であることが見た眼に紛れもない点で日本の建築が再び建築になり始めているのをかんじさせた。その廻りが松と芝の宮城前の広場であっても少しも構わなくて又これは東京の建物だったからその広場が廻りになくてはならなかった。今その辺りから丸の内の方へ歩いていけばかつては赤煉瓦の建物がならんでいたのも壊されて新築された建物ばかりになっているが、そこを歩いて見るならばやはり町の感じがすることで林野局の伝統がここに受け継がれていることが解る。その伝統の形成と呼べるものにこっちは立ち会っていたのでそういうものが現れつつある時に一つの建物を後生大事に守ることはない。


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