東京美観地区 丸の内における市街地形成 景観の歴史
-戦災復興〜高度成長期以前の都市計画に於ける景観形成-とその継承解体
The Modern History of Urban Construction and Townscape
in the Esthetic Area of Central Tokyo
-Particularily on Marunouchi Area-

76136 川西崇行

○研究の背景と目的
 本論文は、現在の東京の都市骨格をなしている帝都復興事業以降、昭和戦前期において、都市の美観或いは景観がいかに意識され、いかに取り扱われ、かたちづくられたかを検討する。具体的検討の材料として、東京都心の枢要部である東京駅周辺および丸の内地区の形成とその変容をとりあげ、昭和8年に美観地区指定の初例とされた意義とその後の運用、あるいは戦後・高度成長期における当該地区の変容を通じて、我が国の近代都市計画における美観・景観へのまなざしを通史的に記述する。

0. 美観形成に関する歴史的考察
 一般に我が国の都市計画においては、都市景観を具体的なかたち・像で考えるという伝統がうすい。
ヨーロッパの都市計画で多く見られたように表象的空間として都市を整備していくという発想は日本においては希薄であり、様々な都市の意匠は、実用的な都市骨格のなかに埋もれるように拡散して配置され、都市の構造が映像的に意識されることは少なかった。数少ない例外としてプロジェクト型であった明治期の都市計画(ウォートルスによる銀座煉瓦街やエンデ、ベックマンらによる官庁集中計画などの欧化策の時期の地区計画など)の数例が挙げられる。
 市区改正事業や1919年以降の都市計画法制定以降の法定都市計画では、個別プロジェクト型ではなくコントロール型であり、計画の全体像が「絵」として意識されることは少なくなった。
 その中にあって、震災復興以降に美観形成に関係した、復興局周辺の海外の都市計画思潮の研究・受容や都市美協会の啓蒙活動を検討すると、1)(前者において)都市景観の更新にあたって、在来の歴史的環境・風致に配慮した、過去と連続性のある都市景観の育成を早々と提唱しており、2)(後者は)市民を巻き込み、都市のアメニティや愛市精神の育成を環境の形成からはかる、という今日的な視点の萌芽をみることができる。

. 近代的都市景観の形成過程
1.旧法期の美観・景観形成の法と制度
(1)旧法・物法における「美観」の扱い
 美観地区規定は旧法体制下では、建築法規であった市街地建築物法(以下物法)にのみ定義され、都市計画法(以下旧法)には含まれなかった。美観規定が旧法に定義されなかった理由として議会・官僚の実利指向がいわれるが、実際、都市計画調査委員会等の議事録によると、池田等の内務官僚は積極的に創出するというよりは、醜いものを排除するという消極的な定義をしている。また都市美観の問題は個々の建築物の意匠論に還元されて理解されることが常であったため、市街地物法にのみ規定されたものと考えられる。

(2)美観地区の指定とその経緯について
 美観地区指定の初例として、1933年4月、宮城外郭一帯が美観地区に指定される。震災復興下、美観地区指定への契機となった事件に警視庁新庁舎の望楼問題があった。
 宮城周辺に高層建築物が建築されると宮城内がのぞかれるというということが問題になり。1934年9月には宮内省の事前協議要請が、同11月には都市美協会の警視庁望楼撤去請願などがなされ、警視庁の望楼は撤去された。
 内務省はこの経緯をふまえ、物法にもとづく美観地区を指定する方向で各官庁と調整し、都市計画東京地方委員会に諮る。委員会は特別委員会を設けて審議し「運用に当たっては広く意見を求めること」という希望事項を付した上で決定、内閣の認可を経て4月告示された。

(3)指定後の実際の運用とその背景
 1934年、警視庁は美観地区内の高さ指定が物法の運用規則として公告され、地盤の海抜に合わせて建築物の高さは六段階(31〜15m)に定められ以降周囲の建物はこれに従って建築された。
 その他具体的な運用は、物法規則に基づいて、高度規制以外に、軒線、外壁の材料および主色、煙突等の建築物付属設備の位置などの取り締まりが行われていた。具体的事例としては、海上ビル新館等の非常階段の位置や丸ビルの外壁改修指示(震災後のモルタル塗りからの改修)を指示した形跡がある。また宮内省の方針に基づき建築物のほか工作物も事前協議の対象とした。
 美観審査会では美観地区拡張計画が議題となった。既存の美観地区を東京市の主要街路に沿って旧市街ほぼ全域にわたり拡張指定することが意図されていた。この計画案では美観地区は自然風致維持と市街地の美観整備をそれぞれ二種に区分し、さらに地域の状況に応じて二段階の規制を設けるものとしている。
 この拡張計画案は1941年「美観地区の拡張指定に関する建議」として警視総監から内務大臣宛に提出されるが、都市計画東京地方委員会の審議に付されなかった。
 この拡張計画は実現することなく終わることになったが、第一次とされた宮城外郭一帯の美観地区指定は宮城の尊厳を主目的としていたのにくらべ、拡張案では都市の美観の保持は広く市内全般にわたり適用されるべきものであるものとしてその概念がひろく一般化され、今日的な意識に通じるものをそこに見いだすことができる。
 美観地区の運用は、復興を担当した帝都復興院(のち内務省復興局)の関係者が、『都市計画ト都市ノ風致美観』などにみられるよう復興計画の理想像を模索する過程で、当時の欧米の都市計画思潮を学習した成果である。
 法制度や世論による限界を踏まえつつ、紀元二千六百年事業や1940年に予定された五輪を好機として捉え、欧米の市心整備・都市景観整備の水準を実現しようと努めたものと思われる。
 しかし美観地区が普遍的な拡がりをもった理念であったにせよ、運用に際して根本的な問題として、指定時の付帯事項「被処分者への加重負担」への配慮・は美観の判定審査に関わる公平さの担保されたシステムの構築についての困難が残る。都市美が広範囲な都市環境・土地の権利問題にわたるため、それを包括的に扱う機関・法規の設定が問題であった。この困難さは現在でも変わっていない。
 また景観創出のための制度として評価すると、震災復興が一段落したのちに制定され、実際の当該地区の建築行為に大きな影響を与えたとは言い難い。

2.形成された景観とその特徴(旧法期)
(0)主要な眺望点・景観軸の抽出・選定
 明治期以降1970年代まで絵葉書・写真から眺望点を調べ、景観軸を特定しその特徴(景観特性)を考察する。
 実際の作業にあたっては、復興の区切りとなった震災復興祭(1929年)以降発行された写真帳・写真集、戦後発行された写真集、明治〜昭和戦前期に発行された絵葉書を集成した写真集から、当該地区を撮影した計83景の撮影地点を地図上にプロットし(図1-1)、各々の眺望点と眺望の対象(建築物・通景・街路景)を比推する。これによって導かれる36の眺望点を性格別に整理すると、時代別に以下のようになる。
 明治期においては、@馬場先濠から馬場先通りの通景、大正・昭和戦前期においては、@日比谷交差点付近から濠端(現・日比谷通り沿い)の遠望、A馬場先から南北への濠端通景、B和田倉から濠端および行幸道路通景、CD東京駅前広場を東京駅北口・南口からパノラマ的に望むものの、明治期1地点、大正・昭和戦前期5地点を主要眺望点としてあげることができる。
 また、明治期における眺望の対象(景観軸)はおおむね馬場先通り沿道であり、大正・昭和期においては濠端(日比谷濠・和田倉濠)、行幸道路、東京駅頭(東京駅前広場に接した街路)であると定義できる(図1-2)。
 これら眺望対象たる景観軸は、おおむね街区の骨格をなす主要道路沿いであった。明治期の早くから煉瓦造オフィス建築の櫛比した仲通り他の街区内の街路・細街路は街区一体のものと意識された傾向がある。

(1)丸の内地区の歴史的形成過程と景観的特徴
●明治以前(前史)
 丸の内一帯は江戸幕府の成立以降都市基盤が整備され、江戸城の外曲輪、武家地として整備された。当地区の大きな方形の街区割・大名小路等はその名残である。

●明治期
 大手町・丸の内・有楽町・皇居外苑の東側の外濠までの一帯は、旧幕時代は武家地としてほぼ同様の土地利用であったものが、明治以降分節され固有の性格を持つようになる。丸の内は、維新直後から1887年頃まで大部分が陸軍の兵営や練兵場であった。1889年の東京市区改正設計において、丸の内一帯は市街地をなるべき地域とされたことが契機となって軍の移転が本格化した。政府は軍諸施設の移転費用捻出のため丸の内一帯を払い下げることを決定したが、必要とされた170万円の予算を捻出することは容易ではなく、結局競売入札に付された。紆余曲折を経て1890年、三菱が一括して土地の払下げを受けることとなる。払い下げ以降、三菱によって日本初のオフィス街の整備が始められ、1894年三菱一号館が竣工、爾来馬場先の東京商業会議所から東京府庁にかけての現在の馬場先通り沿いに並んだ赤煉瓦の貸事務所街はその 西欧風のたたずまいから「一丁倫敦」と呼ばれた 。

 東京府庁舎(1894-1949年)・東京商工会議所(1899年-1957年)など馬場先通沿いの公的建築は妻木頼黄の設計によるドイツ・ルネサンス式であり、また三菱一号館(1894年-1968年)をはじめとした三菱による諸建築はコンドル・曽根達蔵らによるイギリス風フリー・クラシックであったという差はあるものの、この時期における丸の内の建築はすべて赤煉瓦造であった。馬場先通りの通称であった「一丁ロンドン」はこの特徴的な景観によるものである。赤煉瓦建築群のヴィスタ景は絵はがき等の題材となるなど、当時の代表的な景観であった。
 仲通りの建築群の形成では、経営者である三菱は、コンドル・曽根達蔵・保岡勝也といったデザイン系譜的に連続した建築家を自社の顧問・技師として起用することで統一感ある地区整備をおこない、@イギリス風赤煉瓦建築の連続した街並、A揃った軒高、B通りを挟んだ対称性、C路地の交差する角地に塔を建てるなどの「対」の演出など 、今日の丸の内地区の景観の基本的な構成をつくりだしている。特に「揃った軒高」と「通りを挟んだ対称性」の原則は現在の丸の内の市街地景観にも引き継がれ、地区の特徴になっている。(図2)

 また、この払い下げに際し市区改正委員会によって、「(皇居の近傍でもあり都市の枢要の箇所であるから)見苦しき建築をせぬ様なる方法を設け」と建築のありようが協議され、「払下地の街路沿いの建築は煉瓦もしくは石造に限る」旨の興味深い付帯条件が付されている。
これは1933年に指定される美観地区に先立つ、都市美観に対する施策の嚆矢とみることができる。

●大正期・昭和(高度成長前)期
 東京駅が完成したのは大正3年のことである。東京駅の完成後、立地条件が整ったこと、また資本主義経済が進展し事務所需要が増大したことを背景として旧東京海上ビルや丸ビルなどを嚆矢に大型オフィスビルの整備が行われ、丸の内地区の業務集積は一層高まった。その整然とした大街区建築の連続した様は、棟割赤煉瓦の「一丁倫敦」に比して「一丁紐育」と呼ばれた。東京駅前の広場・道路の整備に関して特筆すべきこととして、震災前の大正10年(1921年)に内務省による市心整備計画が提示され、東京駅から皇居外苑に至る広幅員道路が構想された。この整備計画自体は実現しなかったが、広幅員道路の構想は震災後の復興計画に反映され現在の行幸道路が濠を横断する難工事の末に誕生した。

(2)デザイン的特性の分析・考察
●行幸道路軸に面する建築群
 旧東京海上ビル(1918年-1966年・図3等の番号1)や丸の内ビルヂング(1923年-1997年・図3等の番号2)など、大きな街区一杯に建つかたちの建築が登場し、1919年の旧都市計画法・市街地建築物法の制定を背景に、揃った壁面や絶対高制限による軒高の統一など、整然とした景観が形成される。
 行幸道路沿いの四街区はその典型である。揃った壁面位置および絶対高制限による軒高・スカイラインの統一は軸線両側の四街区の一体感をつくりだし、並木と相俟って、軸線に沿っての遠近法的な効果を強めていた。
四街区の形態・意匠の統一性に加えて、軸線である行幸道路をはさんでの三菱地所部設計の丸ビル・新丸ビル(1937年設計・1952年- ・図3等の番号4)の対(図4の対B)、曾禰中條事務所設計の旧東京海上ビル・旧日本郵船ビル(1923年-1975年・図3等の番号3)の対(図4の対A)など通りを挟んでのプランやデザイン的な対称性・連続性もみてとれる。この結果我が国ではめずらしい、欧米風の風格ある都市空間が現出した(図5)。
●東京駅前を囲む建築群(図6)
 東京駅前広場を囲む建築の二対の「対称」(◆:対B・◇:対C)、新東京ビル-東京ビル-◇中央郵便局(1931年・図3等の番号5)-◆丸ビル-◆新丸ビル-◇鉄道省(1937年・図3等の番号6)の「連続」した、軒線の揃った白い壁面が特徴的である。中央郵便局を嚆矢として、35年に丸ビル改修(タイル貼りのモダニズムに近い表現になった)、1937年に鉄道省、52年に新丸ビルというように長期にわたって景観的まとまりを強く意識した造営が行われてきたのは注目に値する。

●日比谷通り濠端の街路景(図7)
 横河民輔設計の旧帝国劇場(1911年-1964年)、田辺淳吉設計の旧東京会館(1922年-1971年)、岡田信一郎設計の明治生命館(1934年- )、渡辺仁設計の第一生命保険(1939年-1995年)など、明治後期以降の極めて質の高い建築の蓄積によって、華麗な意匠の連なりと連続したコーニス・ラインがみせる水平方向の強調などによって優美な都市美観を形成し、特に日比谷濠隅からの眺望は絵はがきや画題になるなど強く意識された。

. その解体と継承

3.戦時下〜新法期の経過と制度の変遷
(1)戦時下から高度成長期までの経過
 戦時下の1943年、市府合併によって都が成立し、建築行政は警視庁から都に移管され、同時に美観審査委員会は解消された。また同年12月には市街地建築物法戦時特例の公布により、用途地区や乙種防火地区と供に、美観地区は実質的に運用されなくなり、行政上の空白・法的運用停止の状況下で、皇居外郭の美観地区は事実上運用を停止する。戦後の1948年、市街地建築物法施行規則の改正で「当分の間、美観地区既定を適用しない」との適用除外となり、さらに25年の建築基準法制定に伴って美観地区は運用条例を別途に定めないと運用できなくなった。こうした経緯を経て、皇居外郭に指定された美観地区は、戦後広告物のみ禁止されているものの運用条例のない地区指定、宮内庁による事前協議が形式的に残され現在にいたっている。
 また戦時下の鋼材使用の制限により、基礎部分を残して工事を中止していた(仮称)東京館(1937年設計完了)が工事を再開、1952年、新丸ビルとして竣工し、これによって戦争を挟みつつ、東京駅前に連続する軒高31mの白い壁面が完成した(図8)。

(2)容積制の導入と建築線制度の廃止
 1960年代にはいると、都市への集中や、超高層ビル建築への技術的な問題がクリアされたことで、絶対高制限に代わって容積制が導入されていく。
 1961年には特定街区制度が、1963年7月、建築基準法改正(容積制)が導入された。これによって1964(昭和39)年10月、東京都(環状六号線の内側)に容積制の導入が告示され、1965年1月、丸の内は容積地区・第10種地区(1000%)に指定され、市街地建築物法以来の絶対高制限はその効力を失った。
 その後、1966年10月、東京海上ビルの新築に際して、施主・東京海上が高層化の方針を打ち出し、周囲のビル群による低平なスカイラインと相いれず、また皇居前の風致を害するとして「美観論争」が発生した。
 当時、丸の内の皇居の濠端から線路までの間は、物法期からの絶対高の制限にくわえ美観地区の指定 とその運用によって、建築物の高さが31m迄とされており、二重の制限のため建物の高さが整然と揃っていた。その上、濠端という立地に鑑みて不敬問題 が取り沙汰され、「都市美如何にあるべきか」「美のあり方を統制できるのか」という問題をめぐって、高さ制限を存続しようとする東京都と周辺地主の三菱地所と、建築の自由を主張する施主の東京海上、当時の建築家協会・学会との衝突を引き起こした。
 結局、佐藤首相の談話や国の斡旋などもあって、当初の計画の30階・128mを、25階・99.7m(約100m)に修正・建築することとなった 。以降この周辺の建物の高さの自主規制値は、なかば不文律として100mとされるようになったのであるが、この数字に落ちついた合理的理由・経緯は不透明なままである 。
 この海上ビルの超高層認可以降、帝国ホテル等が一斉に取壊・改築され、東京のスカイラインは無秩序なものに変貌していく。
 一方、当時1959年以来、絶対高制限に従いつつ自ら策定した「丸ノ内総合改造計画」によって赤煉瓦建築や大正初めの鉄筋コンクリート建築のオフィスビル群の更新を進めていた三菱地所は、細街路を廃道・大ブロック化し、一団地扱いの認定を受けるなどしたのち、斜線制限を避けるため壁面線を後退させることにより揃った軒高を維持するという、非常に込み入った再開発手法をとった。これによって明治以来の軒高の揃った景観の特性は一応維持されたが、その過程で明治大正期の赤煉瓦建築は一掃され、1968年には、我が国初のオフィスビルであった三菱一号館(東九号館)が文化財審議委員会の保存勧告を無視して解体され、当該地区の歴史性は大きく損なわれた。

4.その後の景観の変化
(1)高度成長期以降の景観・建築群とその特徴
●絶対高制限下の建築更新
◆戦後第1期(1945〜50年代前半)
 1951年に完工した東京ビルヂング(図8)、1952年に完工した新丸の内ビルヂングなど、戦前以来のモダニズム的意匠の建築が新築された。

◆戦後第2期(1950年代後半〜60年代)
 その後「丸ノ内総合改造計画」に従って建築された仲通り沿いの諸建築(図9)は前述の通り絶対高制限に従い31mの軒高で揃えられた大規模オフィスビルで、意匠的には非常に単調ながらも軒高と壁面線の揃った整然とした景観が形成され景観特性のコード自体は継承された。
●容積制の採用以降と高層化
◆戦後第3期(〜80年代前半まで)
 容積制移行以降も、当該地区内では明治生命新館や東京会館改築など、地区の景観特性をふまえた31m軒高の建築事例が続く。
 特に日比谷通り沿いにおける建築更新では、地権者である三菱地所は、マスター・アーキテクト的な建築家として谷口吉郎を用いる。帝国劇場(国際ビル)(図10)および東京会館(図11)では、連続した街路景を意識し、31m軒高を維持し、かつ壁面意匠の充実したものとした。この時期の建築的特徴としては、31m軒高以上の階に関しては後退した上屋とし、容積を消化している。事例として三菱商事ビルや東京会館があげられる。

 その後容積消化の難しさやオフィス形態の変化から、66年の富士銀行本店を初例として、70年代に入ると50m超の高層棟を持つ建築タイプが出現し、地区の景観のコードはにわかに混濁する。
 特に行幸道路西南端部の日本郵船ビルの改築(図13)では、旧建築の壁面線・軒高共に維持されず周辺4街区の一体感が大きく損なわれる結果となった。同様に旧三菱本社跡の三菱ビルヂング(図12)や三菱銀行の改築においても、旧建築の形態から導き出された景観のコードは引き継がれず、東京駅前からの景観は変容した。
 また一方、揃った軒線・壁面線という街区整美の手法と全く異なる方向性として、高層化による空地の導入がある。超高層化による利点のひとつとして、足元に空間をつくりこれを開放することによって自由な活動の場を提供するというものがあった(例えば東京海上ビルは敷地の約60%を空地として残している)。その空地への価値観はその後の特定街区や総合設計制度による「公開空地」にも反映され、大手町地区を中心に多くの足元空地が誕生することとなった。

(2)デザイン的特性の解体と継承に関する分析
 前章までの経過によって形成された丸の内地区の特徴ある街路景観が、現在までにでいかに変容しまた一方で継承されているかを検討・検証する。印象像の記述に対して、その実証的検討の材料として当該地区の建築の高さ及び軒高を主たる指標として以下論ずる。
 なお本章の検討にあたっては1997年夏段階(丸の内ビルディング解体以前)における建築物の状態を基礎的データとしている。

●建築の高さ・かたちによる分類等
 分析にあたって当該地区内の建築物を以下のように分類した。
【建築の高さ・形態による分類】
  type ・軒高31m+設備等の小規模な上屋
  type ・軒高31m+大規模な上屋・塔屋
  type'・軒高31m+軒線から30m以上後退した高層棟
 (*type+ type(')を31m軒高のものとする)
  type。 ・軒高31m〜約50m未満
  type「 ・軒高約50m以上〜約80m未満
  type」 ・軒高約80m以上〜約100m未満
  type、 ・軒高約100m以上〜

●【事例1】日比谷通り濠端の街路景観と建築デザイン
(現況の分析)
 日比谷交差点眺望点からのお濠端の通景(日比谷通り沿い)あるいは皇居外苑からの遠望においては、整然と揃った壁面線と高さ31mの軒線をいまだ明確に認識することができる。その結果、水平方向の線が強調され、あるいはスカイラインが強調され街区の単位を越え地区が一体となった印象を与えている。

(検証)
 お濠端(日比谷通り・大手町交差点〜日生劇場間)においては建築件数で、全体に対して31mの軒高をもつ建築物(type+type')の占める割合は59.1%となる。同様の区間においてファサード軒線長さの総延長について検討すると、31mのファサード軒高をもつ建築物の占める割合(type+type')は66.6%となる。さらに上の日比谷通り景観軸の要部である銀行協会〜DNタワー間について同様の検討行っても、建築タイプ別件数で、31mの軒高をもつ建築物(type+type')の占める割合は63%、ファサード軒線長さの総延長では、31mのファサード軒高をもつ建築物(type+type')の占める割合は53.9%となる。
 上記の結果から、視覚的に強く認識される31mの軒線の水平方向への連続性は、過半の建築物がほぼ連続したかたちで現在も31m軒線を保持していることによって担保されているといってよい(図14.15)。

●【事例2】東京駅前を囲む建築群
(現状の分析)
 東京駅前は、駅前広場を31m軒高の建築がとり囲む形となっている。前述の通り丸ビル・新丸ビル、中央郵便局・旧国鉄本社の二対の建築によって左右対称性が強く意識される、モダンデザインの建築壁面は、広場に整然とした印象を与えている。
(検証)
 東京駅前広場(旧国鉄本社〜東京中央郵便局間)では、件数でtype+type'は全景である100%を示す。上記駅前広場周辺の街路(広場に連続する街路・大手町ビル〜東京ビル)についても、上と同様に件数で31m軒高の建築物が100%を占め、広場同様街路沿い全景を占めていることを示す。
 丸ビルが解体されるまでの駅頭の整然とした景観の印象は、街路・広場に沿った7棟の建築全てが31mの軒高を維持し、聯担して連続したスカイラインを形成していたことに起因していたことが非常に明確にわかる。

●【事例3】行幸道路軸に面する建築群
(現状の分析)
 行幸通りのヴィスタ景は、沿道日比谷通り両隅の建築(東京海上ビルおよび郵船ビル)の容積制導入以降の改築によって壁面の後退と高層化がなされたため、壁面線やヴォリュームの不揃いが生じ、かつての四街区(東京海上ビル街区・郵船ビル街区・丸ビル街区・新丸ビル街区)の一体感・対称性を失い、濠側からのヴィスタ景の焦点である東京駅への景観的求心力を損ねている。
(検証)
 行幸道路においては、件数で、type氈F25%、type:25%、type「:25%、type」:25%となり、type+type'の占める割合は50%となる。ファサード総延長について検討すると、type氈F27.5%、type:27.5%、type「:27.7%、type」:17.3%となり、type+type'の占める割合は55%となる。
 上記の結果で、たった四街区・4軒にもかかわらずその建築形態が不斉一であり、軒線の連担も半ばないことがわかる。特に丸ビル・新丸ビルの「対」が崩れた現段階では全く連続性を保っていないことがわかる。

●丸の内地区の近代建築の残存状況について
 丸の内地区の近代建築の残存状況であるが、三菱地所の「丸ノ内総合改造計画」などの再開発、また個別の建て替えの結果、その数を著しく減らしている。現在、戦前までの建築は9棟が残っており、明治期0、大正期3、昭和期6である。(戦前設計の新丸ビルを含めて10棟。意匠保存を施した旧第一生命や旧日清生命館などを含めても12棟)このうち、改変の著しいものをのぞけば、東京駅、明治生命館、など、著名な建築物が点的に僅かに残っているに過ぎないということがわかる。
 当該地域における近代建築の残存率であるが、『総覧』以前については統計的数値の根拠となりうる基礎的データがない。代替として、復興建築を網羅的に集めた写真集『建築の東京』(1937年)を用いる。当該地区の建築物で『建築の東京』に掲載されたものは32件、1998年段階で7件(意匠保存3件を含む)の残存が確認されるが、その滅失率は78.1%にのぼる。
 『日本近代建築総覧』では、1980年の段階で46件が確認されているが、『総覧』の改訂時・1983年では31件となっている。更に1998年の独自調査では9件となっている。1983年段階の滅失率は、前回調査の1980年比32.6%となり、3年間の年平均滅失率は10.9%となる。また同様に1998年段階の滅失率は71.0%で、15年間の年平均滅失率は4.73%となり、今なお全都の平均値(3-4%)より高いことがわかる。
 
○むすび
 以上のように丸の内地区は、地区の形成と歩をあわせながら、非常に豊かな市街地景観を形成してきた。現在の丸の内の整然とした印象は、先人の努力が下地になっているということを再認識する必要がある。
 開発圧力の非常に高い都心部にあって、歴史性を保持つつ景観を維持することの困難を痛切に感じる。再開発等で折々に更新される建築の形態は、その時点の建築法規の限界を示すものとなり、非常に先鋭にその姿を示す。都市の形態に対して建築法規の与える影響の非常に大きいことがわかる。今後の丸の内地区における都市更新は、市民の関心を喚起しつつ、首都の枢要な地区として、この地区独特の景観の歴史と特性を十分に踏まえて進めていくべきであろう。

【主要参考文献・史料】
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藤森 照信  『明治の東京計画』 岩波書店 1982
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藤森 照信  『明治期における都市計画の歴史的研究』 1979
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日本現代建築家シリーズ15 新建築社 1992
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都市計画東京地方委員会議事速記録 第四号
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