鈴木 伸治
東京都心部における景観概念の変遷と景観施策の展開に関する研究 : 東京美観地区を中心として


内容要旨

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 本論における問題関心は、「我が国を代表する景観の一つである皇居周辺の景観が、その時代々々において、どのように認識されてきたか、またその認識がどのように景観施策に反映されてきたか」という点にある。

 皇居周辺地区は昭和8年の美観地区指定により、我が国で初めての景観行政が実施された場所であったが昭和18年の都政施行による美観審査会の解消によってその運用は停止された。美観地区制度は、戦後建築基準法下で地方公共団体が定める条例に基づいて運用されることとなったが、東京美観地区については条例は制定されず、地区指定のみが残ることとなった。

 しかしそれ以後も、昭和40年代初頭、東京海上ビル建て替え計画に端を発した美観論争、1988年に発表され大きな批判を呼んだマンハッタン計画など、景観を巡って常に世間の耳目を集める地区であった。

 日本を代表する中心業務地区であると同時に、日本のシンボルの一つである皇居、また有数のランドマークである東京駅・国会議事堂、市区改正、震災復興、戦災復興等を通して形成されてきた日本近代都市計画の一つの到達点とも言える市街地構成によって創り出される都市景観は首都東京を代表するものである一方で、その時代々々における社会・経済の要請、都市計画法制の変遷によって変貌を遂げてきた。

 本研究では前述のような問題関心に基づき、皇居を中心とする都心部の景観形成の歴史を振り返りながら、都心部の景観がどのように考えられてきたか、また景観施策がどのような展開を見せてきたかという点を検討し、これらを通して日本の都市計画史における景観の歴史の一部を明らかにすることを試みている。同時に本研究では国レベルでの法制度の変遷についても目を向けている。美観地区制度の成立過程において丸の内煉瓦街が理想的な市街地像として考えられていた点、建築基準法において美観地区がどのように構想されていたかといった点などを踏まえながら、都市計画法制における、美観あるいは景観のビジョンについても検討を行っている。

 以上のように本研究では,東京美観地区を中心としてその景観形成の歴史、関連する法制度の変遷、及び当該地区を対象とした様々な計画に注目し、これらの計画、施策を通して東京都心部の景観概念がどのように変遷をたどってきたかについての検討を行い、日本の都市計画及び建築・都市行政における景観の歴史の一部を明らかにしようと試みている。

第1章   美観地区の制度成立に至る過程と明治大正期の美観概念の変遷

 第一章では市区改正期から大正8年(1919)の物法・旧法制定に至る迄の時代を対象として、当時の建築界、都市計画界において都市の「美観」がどのように考えられてきたかについて概観しながら、物法、旧法の成立の過程において、どのように「美観」が構想されていたかについて考察をおこなった。

 ここで特に注目するのは物法の前身となった東京市建築条例案(大正2年、建築学会起草)とその成立過程である。これは明治39年の尾崎東京市長の依頼により建築学会が6年半の歳月をかけ、諸外国の建築法令の検討を行いながら起草したものである。この条例では「街上の体裁」という章が設けられ、これは後の美観地区制度の原型となったものであった。「街上の体裁」は建築家曾禰達蔵が中心となって考案したもので、モデルとなる市街地像は日本初の本格的オフィス街である「一丁ロンドン」であったことを明らかにした。また、この時期の美観に対する建築家、都市計画家の理解としては、市区改正期に見られた西洋都市の模倣という抽象的な理解から、諸外国の建築法令の検討等を通して、より具体的な理解へ到達し、美観は特定の地区だけでなく、広く市街地一般に求めるべきもの、また維持するだけでなく、積極的に創造すべきであるという認識があったことも明らかにした。

 次に物法、旧法制定のため内務省に設けられた都市計画調査会審議の過程で、美観がどの様に扱われていたかについて分析を行い、起草の段階では美観地区と風致地区の概念が明確に分離していなかったこと、当初から皇居周辺の美観地区指定が想定されていたことなどを指摘した。

第2章   東京美観地区の指定とその運用

 ここでは物法・旧法成立後、昭和8年(1923)の東京美観地区の指定に至るまでの経緯と指定後の運用について考察した。

 大正末から昭和戦前期にかけて、美観は国威発揚の道具立てとして、天皇制との結びつきを強めていく。紀元2600年(昭和15年)を迎えるにあたり開催が予定されていた東京オリンピック、万国博覧会にむけて、都市美協会、都市風景協会などの活動により、都市美運動という社会運動としての展開も見せる。このような社会情勢を背景として、東京美観地区指定の契機となったのが警視庁庁舎望楼問題である。これは建設中の警視庁庁舎の望楼が皇居を俯瞰するものとして、宮内省、都市美協会らの主張により、その上部が撤去されたという事件であり、従来の東京美観地区指定と皇国史観とを結びつける根拠となっている。

 本研究ではこの事件を巡る、都市美協会、内務官僚らの言説を検討し、東京美観地区の指定が皇居俯瞰問題をきっかけとして、中央官衙計画に「美観」を構築しようとする試みであったという仮説に基づいて検証を行った。

第3章   戦災復興期における東京都心部の景観問題

 ここではこれまでほとんど明らかにされていなかった、戦災復興期における皇居周辺部の景観施策について検討した。

 戦災復興計画において皇居周辺一帯は、特別地区の一種の公館地区として指定された。公館地区とは東京の中枢地区として、建築美と風致美を積極的に構築することを意図した地区として構想されていた。当時としては法的な位置づけが無く、東京都が行政指導の根拠とするための地区指定であったが、予定されていた新たな建築法において制度化されることを念頭に置いた暫定的措置でもあった。このように戦災復興期においても継続しで美観行政を行おうという意志が東京都にはあったことを明らかにしている。

 また、この章では昭和25年の建築基準法の制定に至る過程で美観地区制度がどのように構想されていたかについても検証した。

 昭和21年に戦災復興院で検討された建築法草案においては、美観は広く市街地一般に構築すべきものであるという認識に立ち、「景観」を章として独立させ、積極的に良好な景観を形成を図るための地区として景観地区が構想されていた。この考え方は建築基準法の起草作業においても引き継がれ、積極的に景観を創造することを可能にするための制度設計が模索されたが、旧法の同時改正が不可能となり、都市計画関連条文は物法の内容を踏襲することとなった。その結果として建築基準法(昭和25年)では美観地区制度は市町村が定める条例によってその運用が為されることとなり、制度の位置づけとしてても美観を保持するための消極的なものとなった。

第4章   高度成長期における都心部の景観問題

 ここでは高度成長期における都市景観を巡る問題について検討を行っている。この時期の都心部の景観の認識については、東京オリンピック開催視野に入れて、景観行政のあり方を模索する時期であり、一方で高さ規制の撤廃・容積率制の導入によって景観のあり方が大きく変化した時期でもある。

 東京都ではオリンピック開催を視野に入れ、首都建設委員会、首都圏整備委員会を舞台として都市美運動を推進し、景観行政確立のための都市美委員会、首都景観委員会の設置を模索するが実現には至らなかった。

 また、昭和36年の特定街区、昭和38年の容積地区制度の導入により高さ制限が撤廃され、容積率制による形態コントロールの時代を迎えるが、これにより、統一性の景観から、超高層建築を許容する多様性の景観の時代へと移行してゆく。

 また、東京海上ビルの超高層計画を契機とする美観論争は、指導型の景観行政の限界点を露呈したとも言える。

 総じてこの時代の都市景観行政の特質は、指導型の景観行政であり、権威を指向した委員会設置により、その実現を図ろうとするものであった点を指摘した。

第5章   第二次都心部再開発と景観を巡る諸問題

 美観論争によって生まれた都心部における景観行政の空白期は歯止めが利かない都心への集中抑制と、理想的な市街地像を描けなくなった景観行政の転換期であったと考えられる。

 80年代から徐々に始まる東京の景観行政が、地域の個性と歴史性の尊重という要素を含んでいたのは、景観行政の大きな方向転換であったと考えられる。その後90年代に入ると、景観マスタープラン、景観条例の制定など、体系的な景観行政の仕組みを模索する動きがあり、90年代後半からは都政、区政レベルでの景観行政の確立期にある。

 本章では、都心部に於ける景観行政の発展の過程、都心部再開発の機運と歴史的建造物の保存等の問題を取り上げながら、都心部景観の概念は、統一性の景観から、多様性を許容する景観へ、また官によって示される美観から、台意形成によって成立する景観へと変化しつつある点を指摘した。

第6章   結章

 結章では、以上の検討を踏まえて、都心部の景観概念と景観行政の展開を追い、今後の都心景観のあり方について若干の考察を試みている。

 また補章では、規制緩和政策がもたらす景観・環境面での影響を検証するための容積上昇のシミュレーションを行い、都心部における将来の景観・環境面での影響を予測し、地区計画レベルでの対応の必要性を指摘している。