0・ 研究の概要

 『建設白書2000』は「美しい景観のまち」の育成を大きな課題に位置付け、戦前期の都市美協会を中心とした都市美運動にも言及している。都市風景を巡る現在的思考は、確かに都市美運動にその端緒を垣間見ることができるが、史実の多くは歴史の中に埋もれたまま、現在誰一人にも肉体化されておらず、思考は蓄積として活用されていない。 

本研究では、このような問題意識を基に、20世紀前半の都市美を目的とした活動の実態を明らかにし、【図‐2】に示す二つの視点からその意義を考察することを目的とする。

運動 = 目的を持った活動
 @目的を明らかにする⇒ 都市計画に関する思考(議論、主張、提案)
 A活動を明らかにする⇒ 都市での実形(主体と対象(客体))

本研究では第1章で運動の背景として都市計画と都市美の関係を整理し、第2章で都市美協会の都市美運動、第3章で都市美協会に留まらず広汎な活動を行った橡内吉胤、石川栄耀の都市美運動の実態とその意義を明らかにする。

1・ 背景 都市計画と都市美

1−1 都市計画の誕生、都市美の誕生
1)都市計画と都市美の生れる前 (〜1910年頃)
銀座煉瓦街や日比谷官庁集中計画における威信礼儀の洋風美観と、市区改正委員会での議論における保全型風致美観という都市風景に対する二つの審美観が存在した。
2)誕生期の都市計画と都市美 (1910〜1917年頃)
全市街での洋風美観創出を目的とした東京市建築条例案(建築学会、1906〜1913年)の検討と同時に、「都市の美観」『美術新報』や黒田鵬心「帝都の美観と建築」『東京朝日新聞』(共に1910年)等、都市美観の啓蒙も始まった。
この時期は、「都市計画」という用語が生まれてきた時期であった。又、1916年には岡田信一郎の「建築条例と都市計画」(『東京朝日新聞』)で「都市美」と言う用語が初登場した(都市計画の目的として使用)。この時期、岡田始め建築家を中心に、市区改正の延長型(市街地改造)で美観創出を目的とする「旧い都市計画」が都市計画に対する大勢の理解であり、郊外地を主対象とした都市の総体的コントロール手法である「近代都市計画」の理解者は少なかった。
3)「近代都市計画」と都市美 (1918〜1919年頃)
1919年には都市計画法・市街地建築物法という日本で最初の都市計画関連法が制定された。その制定過程では、美観を目的とした「旧い都市計画」は、「近代都市計画」の導入を目論んだ池田宏らにとっては、都市計画導入の意義を誤解され易くするなど、障害以外の何物でもなく、審議過程で「旧い都市計画」もろとも都市の美観は都市計画の目的からは駆逐された。都市美は風致・美観地区という限定された地域での消極的な保全型の問題に収斂された。
1−2 震災前後の都市計画と都市美
1)都市環境への眼差し (1920〜1923年頃)
1910年代には、都市に新中間層(ホワイトカラー)が登場し、合理主義的思想を背景とする大正文化が開花した。そして生活環境の洋風化を目指した住宅改良運動や生活改善運動が登場した。この生活環境への関心は、やがて生活の器としての都市環境へ拡大し、1922年には『中央美術』「都市生活の芸術研究」特集、『庭園』「都市修飾号」、そして橡内吉胤『都市環境より見たる都市問題の研究』といった、身近な都市環境改善の視点から、都市の美化を唱える都市美運動の源流が登場してきた。身近な都市環境改善は「近代都市計画」の合理的科学的なイメージへの期待と組であった。1923年の関東大震災の前には都市美の大衆化・体系化の両方のアプローチが試みられるようになっていた。
2)震災復興における都市美 (1923〜1926年頃)
 このような都市環境からの都市美を基に、震災後の帝都復興にあたり、「旧い都市計画」とは又異なった意識で、都市の美観が方々で主張されるようになった。特に都市計画を専門としない建築家、芸術家・文士らから都市美を重視した理想的な都市計画に関する言説が数多く発表され、工政会始め各民間団体からの建議も盛んに行われた。
1925年にはこれらの各人の意見をまとめ一つの力とすべく、都市美研究会が設立され、都市美運動が開始された。
 実際に帝都復興に当っていた都市計画官僚の間では、1925年の岡田周造(復興局都市計画課長)の@「都市計画と都市の風致美観」、A「一詩人の東京都市計画論」、B「帝都復興と都市の風致美観」の三連作に表現されたように、@都市美を基本に有する欧米の都市計画制度の研究、A民間からの都市美重視の都市計画論の影響を基に、B都市美を保全創造する都市計画という思潮が生まれていた。

1−3 都市計画における都市美のゆくえ
1)戦前期都市計画の都市美潮流 (1927〜1945年頃)
 1927年の都市計画主任官会議で「都市の風致及び美観の件」が大臣指示事項として伝達された。日本「近代都市計画」が取り組むべきは風致・美観地区の活用であった。
風致地区は1935年には31都市135地区、1940年には108都市、328地区と多くの都市で指定されていった。美観地区は1933年の東京以降、大阪、宇治山田で指定された。京都や横浜等でも指定の検討がなされた。又、風致地区では風致地区委員会(京都)や風致協会(東京他)、美観地区では美観審査委員会(東京、大阪、宇治山田)といった形で、先駆的で積極的な運営がなされた。
又、東京では風致地区・美観地区の追加指定が検討されていた。地域限定的な都市美から都市全域の都市美へという風潮が存在した。1934年の第四回全国都市問題会議では、都市全域の都市美を実現するための方策として、各都市での都市美委員会設置が話題となり、多くの都市、都市計画地方委員会がその必要性を積極的に認めていた。
2)都市計画と都市美の離別 (1945〜1950年代)
 戦災地復興計画基本方針では、美観が一つの目標に加えられ、街路や広場の設計方針、計画標準にも反映された。東京では、都市美を重視した復興計画が樹てられた。
 しかし、1949年にドッジラインが示され、戦災復興都市計画は各地で大幅に縮小され、都市美も後退を迫られた。
 又、建築基準法の制定過程では積極的に都市美増進を図るため、独立した章として「景観」が検討されたが、同時に改正を目指した都市計画法の検討が遅れ実現しなかった。都市計画法の改正も1950年代に頓挫し、以降、都市計画と都市美が離別したまま、混沌とした都市風景をもたらすことになる20世紀後半の都市開発時代へと突入していった。

1−4 小結
 都市美は「旧い都市計画」の目的として誕生し、それを排除した「近代都市計画」においても、都市環境の視点から次第に重視されていったが、50年代にはその潮流も消えた。

2・ 主体 都市美協会の都市美運動

2−1 都市美協会の組織構成と時代区分
事業、会則、組織、役員等の変遷を概観することで、【表‐1】のように、時代区分を行うことができる。

2−2 都市美研究会の設立とその活動
1)「変った顔触で帝都美化」
都市美研究会は1925年10月23日に創立協議会を開催し設立された。建築家等に加え、美術家や文士も集り、当時の新聞は「変った顔触で帝都美化の運動」と伝えた。
2)創立発起人
創立発起人たちの顔触れは、渡辺銕蔵(1885年生れ、東大経済学部教授、各種委員会委員を務める都市計画・住宅政策の専門家)、金子馬治(1870年生れ、早稲田大学文学部教授、芸術に関して非常に造詣の深い哲学者)、田口鏡次郎(1875年生れ、美術雑誌『中央美術』を主宰、美術評論家、掬汀と称す)、鈴木文史朗(1890年生れ、東京朝日新聞記者、特派記者として活躍)、中村鎭(1890年生れ、1914年早稲田大学建築科卒、建築家、建築評論でも活躍)、島田藤(1895年生れ、1918年東大建築卒、M島藤(建設業))、石原憲治(1895年生れ、1920年東大建築卒、東京市復興総務部で都市計画に従事)、橡内吉胤(1888年生れ、都市研究家、元東京朝日新聞記者)、池田信一(不明)、工藤英一(東京市社会局公営課)と多様であった。
3)『中央美術』と都市美研究会
創立発起人の一人、田口掬汀の主催する『中央美術』は早くから都市美に関する論説を掲載していた。1922年の「都市生活の芸術研究」特集では、石原憲治、島田藤が都市美論を寄稿した。石原は都市計画家の役割としての都市美、芸術の対象としての都市及び都市計画運動について論じた。『中央美術』には創立協議会に集った面々が数多く寄稿しており、都市美研究会の源流の一つとなった。
4)都市美研究会に至るまでの石原憲治
石原は1924年に『現代之都市計画』を出版し、都市計画家の任務としての総合的都市美を主張した。その中の「大東京復興計画案」は華麗なバロックモデルを採用しながら、労働者住宅への言及など、近代都市のリアリティに眼を向けた実務者としての石原の性格が表現されていた。現実の都市問題に関わる中で、石原は都市計画家の責務としての都市美を深く考察するようになっていた。
5)橡内吉胤を中心としたつながり
橡内は帝都植樹協会を組織し東京市の社会施設へ植樹を行ったが、窓口となった市公営課に工藤がいた。渡辺(橡内の著書の序文執筆)、鈴木(朝日新聞)、金子(早大)らも、都市美研究会以前から橡内と繋がりがあったと推測される。
6)背景の井下清と上原敬二
井下清(東京市技師)は1922年の『庭園』「都市修飾号」ですでに都市美に関して市民を啓蒙する運動の重要性を説いていた。上原敬二(東京農学校)も1920年にいち早くハワイから市民による都市美化運動を伝えていた。1925年3月には上原が井下、石原、橡内に呼びかけ、東京市による緑化運動を協議した。都市美研究会設立の背景に井下(設立時は欧米視察中)、上原という二人の造園家がいた。
7)都市美研究会の活動
 橡内が起草した都市美研究会発会の趣意書は「都市問題に興味と熱意を有せらるる士は漫然書斎や画室に閉じこもっているべきではあるまい」というものであった。会の目的は「都市美に関する研究,批判、計画、建議宣伝」であった。
 例会では美観地区指定から丸ビル、内濠ブールバール設計、看板広告取締、共同建築、路面掃除等、有志が実際問題について意見交換をした。1926年5月には最初の建議書(宣伝印刷美物貼付取締)を警視総監宛に提出した。
 市民を対象とした啓蒙運動として、帝都植樹協会から引き継いだ植樹デーや、小学校を会場に、三回開催した「市民の夕」と名付けられた講演会を行った。
 又、1926年5月の例会は井下を講師に迎えた「欧米視察談」を聴く会であった。その後の例会は講演形式となった。
 これらの活動は新聞で報道されることはなく、世間的認知度は低かった。しかし活動の多くは都市美協会に引き継がれるものであり、都市美協会の活動の原型であった。
8)都市美協会への改組にあたって
 都市美研究会は1926年10月30日の一周年総会で、会長(阪谷芳郎)始め役員を決定し、組織を整え、研究機関から実践機関への意図を込め、都市美協会と改称した。
 都市美研究会で幹事を務めていた石原はこの改称に合わせて、10月24日、27日に東京朝日新聞に「東京の都市美」を寄稿し、「書斎より街路へ」と専門家たちに決起を促すと同時に、「情熱ある市民の協力を待たねばならん」と広く呼びかけた。同じく幹事を務めていた橡内も、12月に都市芸術の視点を盛り込んだ著書『都市計画』を出版した。東京日日新聞では、石原が「都市計画市民読本としても適切なる著述」とするこの本の書評を寄稿した。その翌月には橡内が「都市芸術の職能」を寄稿し、都市美協会の目指す都市芸術=内部からの己みがたき醸酵について説明を行った。
 都市美協会はこのような市民への呼びかけで始まった。

2−3 都市美協会の始動 世間的認知へ
1)委員会と建議運動
1927年2月には調査審議体制として、協会内に道路交通、建築意匠、公園及史蹟名勝、都市問題及都市計画の4委員会を設置した。建築意匠委員会では美観地区指定が議題となった。道路交通委員会では路面上障害物等に関する協議会や諸名士へのアンケート等を行った。
この二つの委員会で共通して話題となった看板広告物に関しては、1928年12月の東京市御大典の際の取締り建議や1929年1月の市議会選挙の際のポスター共同提示の建議が提出された。又、1930年の復興祭の際にも行幸道路の美観維持の建議を行うなど、大衆の関心の集る行事に合わせて取締りの建議を行い、これらは新聞にも取り上げれた。
その他の建議運動としては、外濠風致保存や、橡内が主導した秋田市濠埋立反対の建議があった。
都市問題及都市計画委員会の活動は見出せていない。
2)警視庁塔桜反対運動
 都市美協会の世間的認知に大きく寄与したのは、1929年末、建設中の警視庁新庁舎の望楼に対し、国会議事堂へのビスタの破壊、周囲の風景との不調和、皇城への不敬を理由に撤去を求めた運動であった。新聞にも大きく取り上げられ、結局撤去に成功し名声を高めた。
3)定期的な活動
 毎年4月に主催した植樹祭では、福原信三(資生堂社長)がスポンサーとなり、市民を対象とした式典の他、駅前広場や橋詰といった都市風景の要所への記念植樹等による、緑化思想の啓蒙が行われた。
 二月に一回の割合で開催された例会は、講演を基に、様々な立場の人が意見を交換する「他の会には見られない感興が横益する」、「活動の源泉」であった。
 又、1931年4月には機関誌『都市美』を創刊した。
4)「帝都美化委員会」と「都市美の体系」
1930年11月28日の例会では、通常の講演形式ではなく、「米国美術委員会」案と「都市美の体系」草案審議が行われた。12月16日には、美観維持のために、市長の権限内の建設行為について統制、その他官庁と連絡を図る帝都美化委員会の設置の意見書を東京市に提出した。
この審議・意見は、この年に特派大使として滞日したW・R・キャッスルが、都市美に関心を持っていった牧野伸顕(伯爵)にアメリカのアートコミッションに関する情報提供を行ったことが発端であった。ワシントンのアートコミッションの委員長であったC・ムーアからの資料がキャッスル、牧野を通じて、東京市、都市美協会にもたらされ、研究が始まった。
「都市美の体系」制定の経緯は不明だが、都市美の対象について初めて体系的に表したものであった。
帝都美化委員会についてはその後も協議が続けられた。1932年には和久田實(東京市文書課、後に都市美協会嘱託)による、東京市都市美委員会設置を主張する論文が公表された。和久田は「都市美の体系」を引用し、日本の都市美政策をまとめ、欧米の都市計画と都市美の歯車補車関係を紹介し、日本の都市計画における地域限定的な都市美政策、縦割り行政の弊害といった問題点を指摘し、最後に市長の諮問機関としての東京市都市美委員会を提案した。
 都市美委員会設置はこの後の都市美協会の活動目標となった。そして検討過程で東京市との結び付きが強まった。
2−4 東京市の中の都市美協会
1)第一回東京市道路祭
1931年に都市美協会の主導で開催した東京市道路祭は、復興が成った東京の道路舗装普及礼讃を主目的としていた。企業からの多額の寄付金が集り、各新聞にも大きく報道されるなど、都市美協会始まって以来の規模の事業であった。都市美協会は街路景観の概念の普及に努めた。
道路祭挙行会の副委員長は近新三郎(東京市土木局長)であり、事務所は土木局内に置かれた。近はこの道路祭をきっかけに都市美協会に興味を持ち、1933年には副会長に就任し、協会事務所を土木局内に移転させ、東京市官吏が多数理事、嘱託として協会に関わるようになった。
2)第二回東京市道路祭と大東京建築祭
第二回東京市道路祭は、都市美協会の単独主催で1933年に開催された。実行委員長の近を始め東京市土木局関係者が主導した、道路浄化運動等の公衆道徳涵養の色の強い行事であった。技術の展覧会は好評を博した。
大東京建築祭は、建築美増進と建築文化普及を目的に1935年に開催された。『建築の東京』の出版、建築文化普及展の他、都市美協会の大きな関心事の一つであった都市建築に関して、銀座共同街建築設計競技が行われた。
東京市との関係が強かったこの時期は、祭という形式での全市挙げての啓蒙運動が主要な活動であった。
3)都市醜と都市美強調週間
1936年頃から紀元2600年(1940年)に予定されていたオリンピック・万博を意識した都市美化の気運が東京市や警察だけでなく、広く市内から勃興し始めていた。都市美協会は、市民にも理解し易い「都市醜」という都市美の反意語を創作し、都市美化運動、都市醜排除運動を展開した。
1936年の11月には一週間にわたり都市美とともに都市醜排除を目標に掲げた都市美強調週間を開催し、全市的な清掃運動を主導した。この事業は、市内全小学校での都市美訓話・作文、市内町会からの醵出金で全費用を賄う等、町会統制とも関連したトップダウン色の強い運動であった。
4)建議運動
この時期の建議運動は広告物取締法の改正の他、街路整備、電柱撤廃、騒音防止、あるいは四谷見附の風致保存等、都市醜排除を直接に主張したものが多く見られた。
一方で1934年3月には都市美の維持増進を目的とした東京市都市美委員会設置を建議し、『都市美』でも特集を組むなど、都市美委員会については主張を続けていた。
5)第四回全国都市問題会議への参加
都市美協会は1934年10月に開催された全国規模での会議である第四回全国都市問題会議へ協会を挙げて初参加し、都市美に関する数多くの研究報告を提出した。都市美委員会設置を再び主張する論文も提出された。
この会議では、都市美委員会設置に関するアンケートが参加自治体、都市計画地方委員会を対象に実施され、都市美協会が主張を全国的に展開させるきっかけとなった。
又、石原が「都市景観」を初めて使用した講演を行った。

2−5 都市美運動の全国的展開の中の都市美協会
1)第一回全国都市美協議会
 都市美協会は1936年の第五回全国都市問題会議にも参加した。会期中に全国の関係当局者を集め協議し、地方都市美団体結成と全国都市美協議会開催が決定した。
そして第一回全国都市美協議会は1937年5月に開催された。協議会の趣意は「都市美運動は単に東京のみの問題ではなく…」と全国各地での運動の展開・連携であった。
 研究報告募集のための「研究事項の解説」は、「都市美の体系」以降二度目の都市美の体系化であり、都市計画が「都市の風景を変化させる最も大きな要素」として重視され、研究報告も3割が都市計画に集り、活発に議論された。
 一方で、10月に予定された東京市との街路美化週間は中止となった。東京市との共催事業は以降行われなかった。
2)全国の都市美運動と都市美協会
 1937年には大阪都市協会都市美委員会が発足するなど、この時期、大都市を中心に都市美運動が展開されていた。
都市美協会は、1937年に紀元2600年記念都市美審議会として街路交通、建築装飾、屋外広告等6つの委員会設置を構想し、実際、広告物取締法改正に関する委員会が設置され建議も行われたが、その他の委員会活動・協会単独の建議は殆どなされなかった。全国的な意見と解釈される全国都市美協議会による建議に比重は移されていた。
3)新たな社会潮流と都市美協会
 1937年の防空法制定以降、都市美運動も防空との関係を模索することになった。都市美を不急事業と見なす風潮は、逆に全国都市美協議会継続の重要性を意識させた。
 又、国民保健の観点から厚生が重視され始め、1938年には厚生省が設置された。都市美運動も影響を受け、この年の大阪都市協会主催第二回全国都市美協議会は「健康都市の建設」がテーマで、厚生省の諮問答申案を協議した。
4)第三回全国都市美協議会
1939年には東京美観地区に美観審査会が設置された。都市美協会は次の4点にまとめられる意見を発表した。
(1)美観地区に限定されている諮問範囲の将来的拡大
(2)建築物に限定されている諮問対象の将来的拡大
(3)諮問判定基準としての総合科学的基本計画の樹立
(4)新たな地方色の創造、伝統の摂取伸展の積極的活動
 そして再び都市美協会の主催で1940年に開催された第三回全国都市美協議会では、上記の意見を基に、「都市に於ける新旧文化を調和せしめる方策」と「美観審査会設置並連絡統制に関する方策」の二つが協議テーマとなった。
 「新旧文化調和対策」では、全国画一の都市計画法制度の根本的改正が唱えられたが、具体的には各地の美観審査委員会に委ねる以外の方策は提案されなかった。
 「美観審査委員会設置」では、上記の都市美協会の意見が繰り返されたが、(3)では、計画案を多数作成し、パブリックヒアリングにより市民の意見を聞くことを重要視し、その過程で市民の間に「自然とその案を守り立てて行くという風な観念」が醸成すると主張された。他にも市民との接触を広くするために委員会構成を民間団体主体にする等の意見も出され、都市美協会の議論の一つの到達点となった。
5)都市美運動の終焉
しかし1938年頃より、時局の悪化から、「都市美」が非常時に相応しくないという風潮が強くなった。都市美協会内でも機関誌名(『都市美』)の変更が検討されるなどした。
 『都市美』でも防空や大陸を扱うことが多くなった。常務理事の石川が巻頭で孤軍奮闘し、石原も生活環境創造運動としての再生を訴えたが、1942年には『都市美』が廃刊となった。1943年には国土愛護連盟の一構成団体となり、大政翼賛体制に取り込まれ積極的な活動は終焉を迎えた。

2−6 小結
1)都市計画に関する思考:「近代都市計画」と別立する都市美委員会構想を展開をさせ、最後には「近代都市計画」改良の方向性を示唆する議論を行った。
2)都市での実形:市民との接点は間接的な啓蒙運動あるいはトップダウンの都市の美化運動に留まり、関心は次第に全国都市美関係者連絡へと傾注していった。
3・ 展開 橡内吉胤と石川栄耀の都市美運動

3−1 橡内吉胤の都市美運動 
―東京を中心とした運動
1)都市美運動の始まり
橡内は社会部記者として、1910年代という都市問題の最深刻期を目のあたりにした。その経験から書かれたのが1922年の『環境より見たる都市問題の研究』であった。国(行政)の責務としての都市計画を論じると同時に都市環境に対する個々の自覚を促した。そして個々の責務としての都市環境改善のため、1923年帝都植樹協会を設立した。
2)都市美運動の思想と対象
橡内は都市美研究会の設立の主唱者であり、都市美協会でも中心となって活動した。橡内は都市美協会の思想ととしてシビックテースト(市民意識)の熟成=都市芸術を主張した。1926年12月に出版した『都市計画』は都市芸術の視点から平易に都市計画を解説した著書であった。最終章の「都会の幻想」では、都市芸術の高まりによって都市改造の力が行政から市民の共同に移るという将来ビジョンを描いていた。橡内のこのような主張の源泉には、アメリカの都市美運動の主導者C・M・ロビンソンの都市計画論があった。
 橡内は伝統的な事物に対し関心が深く、歴史的町並みにも早くから着目し、旅で訪れた京都や関町などの町並み保存の提案をし、行政にも働きかけた。歴史的町並みに創造の範を見ていた。又、旅先の秋田では、濠埋立計画に関し『秋田魁新聞』に反対意見を投稿し「世論」を喚起し、都市美協会に持ち帰り反対運動を展開し、計画を撤回させた。
3)都市風景へ
橡内は1930年に『大大阪』に「発見した都市風景」という題名で、高いビルから眺めたときの都市全体としての風景の新鮮さについて書いた。以後、この「都市風景」=都市個性をキーワードに論考を次々と発表し、地形を利導した都市計画、都市周辺の丘陵や湖沼等も含めた都市全体風景の保全、全体を意識した個々の建築のサイトプランニング、更には「近代都市計画」も歴史的保全を考慮し、歴史的美術的価値に囚われず、町の歴史を伝えるものは、個、一地域、一群として保全すべき等と主張した。橡内のこれらの主張の大前提には、常に市民意識の熟成があり、都市計画や都市の知識の民衆化に力点を置いた主張を展開した。
又、橡内はこの時期、大都市の模倣で画一化しつつあった全国の地方都市を頻繁に旅した。各地の町家群等に都市の個性と呼べる都市風景を見出し記録した。橡内は東京に住みながらその都市環境の質の低さに時に絶望した。旅を通じた理想的な地方都市の探求に多くの時間を割いた。
   4)日本都市風景協会の時代
 しかし、橡内は1934年頃から再び東京に視線を注ぎ始めた。1935年には東京市・官僚色の強くなった都市美協会を脱会し、より民衆に近い運動を目指した日本都市風景協会を設立した。銀座通聯合会に協力した銀座美化運動等の活動を展開した。しかし二十年来期待し続けた市民意識は一向に醸成されず、都市計画も道路事業に終始する現実を前に、1937年には「鳥許の振舞」と自省し、「人生の本質問題に触れざる限り、かかる都市計画にはまた多くの望みをかけることができない」とし、以降著作は途絶えていった。
―盛岡を中心とした運動
5)『岩手日報』と橡内
 都市美協会と併行し、故郷盛岡を中心に、岩手日報社、特に主筆の後藤清郎と組み、『岩手日報』に数多くの論説を発表し、市民の「世論」形成を促す運動を行っていた。
6)都市計画運動と盛岡都市生活研究会
1925年の講演会を皮切りに盛岡への都市計画導入のため、都市芸術に基づいた啓蒙的な論説を次々と発表し、都市計画初動期に大きな役割を果たした。橡内は市民の「世論」が行政と並立することを望み、都市改良会創設を提案したが、これに応え1928年には盛岡の有志が盛岡都市生活研究会を設立し活動を開始した。橡内はこれを応援した。
7)盛岡の都市づくりに関する言論活動
又、橡内は盛岡の抱える具体的問題(田圃の埋立、中津川風景の保全等)の提起や意見表明を行い、農校跡地の三業地指定問題等では市民の運動を喚起、応援し、指定取消しに導くなど、具体的な成果も収めていた。
8)盛岡から岩手の町々へ 
橡内の活動範囲は1933年からは岩手県全土の講演旅行に広がり、水沢や遠野などでは市民による自主的な都市づくりや都市美運動の萌芽に、真摯な助言を与え、支えた。
9)盛岡都市美協会
 盛岡では1934年に橡内の『日本都市風景』の出版記念の集りの場で、岩手日報の後藤を中心に盛岡都市美協会が設立された。総裁に南部伯爵、会長に盛岡市長を冠し、橡内は顧問となり都市美運動の展開を試みたが、1937年の岩手日報の社内紛争で橡内と後藤の関係が悪化し頓挫した。
 3−2 石川栄耀の都市美運動
1)都市計画家・石川栄耀の誕生まで
1923年の欧米出張でアンウィンにライフという都市計画の重要な視点を教示された。1925年には上田市で商店街への無知を痛感させられた。これらがその後の礎となった。
2)『郷土都市の話になる迄』
石川は1925年の創刊号から『都市創作』に「郷土都市の話になる迄」の断章を書き続け、「都市計画とは、都市とは」を問い続けた。街路や区画整理を中心とした都市計画技師としての実務は、都市の、都市計画の本態に触れないとし、「「賑かさ」に眼をつける」と、都市の価値を賑かさに求めた。そして、人生の本態は生産ではなく、普段余暇と呼ばれている方、生活にあるとし、産業主体の昼の都市計画に対し、盛り場(代用としての商店街)建設を中心とする夜の都市計画、都市美を主張し研究した。その他に市民主体や地域分権、都市風景等、石川の主張の原点がここで思考された。
3)実践運動 街頭へ
石川の「都市計画技術室から街頭へ」の運動は、1927年の名古屋をも少し気のきいたものにする会が最初であった。会に集ったのは名古屋商工会議所関係者、照明関係の技師らであった。更に商工会議所関係の広告協会や名古屋独自の商店街組織である連合発展会等との連携と照明学会東海支部での研究を背景に、自ら主唱し、盛り場建設を目的とした名古屋都市美研究会を続けて設立した。石川は実際に商店街に入り、住民団体である広小路、大須研究会の設立を支援し、商店街の美化や祭の創設等のマネージメントに取り組んだ。1932年には経験を「盛り場のテキスト」 夜の都市計画」にまとめた。その翌年には東京へ転任した。
4)商業都市美運動の始まり
東京では、照明学会での研究や盛り場論考を通じて盛り場指導の第一人者として認知されるようになっていった。
一方、1935年にルネサンス都市美に見る実用性を論じた長編論文を執筆した頃から、昼に対し夜という二項対立ではなく、「産業部門が手兵としての都市美運動=商業都市美」を主張するようになった。1936年には、自ら主唱し「屋外広告、看板、店頭装飾、街路装飾其他商業美術全般に亘る都市美的効果の研究及び指導」を目的とした商業都市美協会を設立した。各地の商店街商業組合等を支援し、東京を初め、商店街盛り場の建設を目指し活動した。
5)商業都市美運動の全国展開 
1935年には、名古屋都市美研究会が発展改組した名古屋都市美協会、石川の指導のもとで設立を見た広島都市美協会という商工会議所を中心とした二つの都市美協会の設立に関わり、商業都市美運動を全国に展開させた。商業都市美協会はこれらの都市の商店街の指導も行った。
6)都市美協会の石川
1937年には、石川は第一回全国都市美協議会に招待され、真剣みがない、「大衆」の享楽する都市美を理解していない、現実から遊離した意見が横行していると、主催者都市美協会を批判し、「生産」と結びついた商業都市美を主張する講演を行った。都市美運動を市役所に閉まってしまうのではなく、市民の中に投げ出すようにと懇願した。
しかし1939年には都市美協会理事となり、『都市美』の編集、都市美を取り巻く時局に対抗する力強い論説で、かつて批判した都市美協会の都市美運動の灯を守り続けた。
 又、この時期、石川は盛り場論をまとめた。石川は、自らの都市美運動を、都市の本態でありコミュニティの中心である盛場建設を目的とし、商店街盛り場、都市美商店街で如何に盛り場色を維持育成していくかを焦点に、多くは看板・照明等の「商業都市美」、そして区画整理等を伴う時はアンウィン伝来の「都市美技巧」を駆使するものと説明した。
7)東京の戦災復興計画における都市美
石川は東京都都市計画課長として復興都市計画を立案する立場にあり、「近代都市計画」の拡張(運営を包含)を企図し、都市美を目指した理想的な計画を立案した。
特に力を入れたのは「要地都市美化」のための特別地区で、その中でも文教地区と消費歓興地区ではコンペやその後の文教協会や消費歓効協会による民主的な運営を行った。又、特別地区に対応した東京都街路照明基準も公布された。まさに石川の思想を実践したものであった。
1947年には知事の諮問機関として都市美審議委員会を設置した。翌年にはこの委員会の答申を基に東京都美観商店街を都内の主要個所31ヶ所に指定した。地元業者と学識者による美観商店街協会が13ヶ所で設立され、民主的な運営による商業都市美運動が行われた。又、歌舞伎町等では盛場建設が地元の発意で実現した。屋外広告による都市美も重視し、取締りだけでなく、日本屋外広告協会や都市美技術家協会を設立し、広告都市美に力を注いだ。
しかし、ドッジラインによって復興計画は縮小し、特別地区も法定化が見送られた。石川は地方自治論に逆らってまで首都建設法に力を入れたが、1951年には都を退職した。
8)都市美、次代へ
中学生に向け、「一つの建設せざる都市計画」であるコミュニティ活動を説いた『私達の都市計画の話』や丹下健三との対談、都市美論、屋外広告論、盛場商店街論を一つに結び付けた『広告と都市美』、そして早大での講義によって、「美しい都市」の夢を次代に託し1955年に石川は逝った。

3−3 小結
1)都市計画に関する思考:「近代都市計画」が整序に留まったのに対し、橡内は市民意識、都市風景、石川は賑かさといった都市の積極的価値に着目し都市計画を思考した。
2)都市での実形:地方都市、歴史的町並み、商店街について先駆的考究・実践を、市民・市井との協働の中で試み、石川は更に「近代都市計画」への位置付けも試みた。

4・ 都市美運動、その意義

1)都市計画改良の都市美運動
都市美は優れて都市固有の問題であり、地方分権の議論を呼んだ。地方分権の根底に存在すべき地域像については、法制度の全国画一性を批判した他、橡内によって地形・歴史的環境、都市を取り囲む自然環境を含めた都市風景の保全が主張され、石川によってコミュニティー、生活が見据えられた。又、「美は主観」という批判に対し、審査基準としての都市レベルでの基本計画樹立、市民の合意形成を企図したその策定プロセスの必要性にいち早く議論が辿り着いた。「近代都市計画」は都市美運動によって斯様にその改良の方向性、獲得すべき諸要素を指し示されていた。
実際の活動では歴史的町並みや商店街の公共性を意識的に汲み上げ、主体であるべき民間・市民を支援した。多分野の人が集い議論する組織的活動があった。「まちづくり」の祖型と言えよう。「近代都市計画」の批判から「まちづくり」が生じた史実一つに基づけば、都市美運動は現在に届く日本で最初の都市計画改良運動の胎生であった。今我々を風景に着目させる力もそこに存在している。
2)美しい都市風景に向けて
組織としての都市美協会、個人としての橡内・石川、我々にもそれぞれの取り組みが用意されている。そして議論の過程で橡内は「世論」を、石川は「大衆」「生産」を唱えるかも知れない。美しい都市風景へ至る公正で合意可能なプロセス、事後評価、経済的価値、都市美運動は美しい都市風景を論じる現在的枠組みを、つと示していたのである。

主要参考文献 (1・背景 都市計画と都市美)
○渡辺俊一(1993)『「都市計画」の誕生』、柏書房
○鈴木伸治(1999)『東京都心部における景観概念の変遷と景観施策の展開に関する研究』、学位論文
主要資料 (2・主体 都市美協会の都市美運動 3・展開 橡内吉胤と石川栄耀の都市美運動)
○各種雑誌:『都市公論』、『都市問題』、『都市美』、『大大阪』、『都市創作』、『週刊朝日』等、各号
○各種新聞:『東京朝日新聞』、『東京日日新聞』、『岩手日報』、『名古屋新聞』、『新愛知新聞』等、各号
*紙幅の限られた梗概という性質上、一々の引用先・注釈に関しては省略した