我国戦前における近代建築保存概念の変遷に関する基礎的研究
A Basic Study on the Vicissitudes of the Concept for the Conservation of the Western-Style Architectures in the Prewar Days in Japan
36108 鳥海 基樹

This is a basic study which aimes to trace the ups and downs of the conservation movements of the western-style architectures before the WW in our country.
There has been no study on this theme , so this paper begins with the excavation of the facts of the conservations. Then the examples are arranged chronologically and grouped according to the concept which hides behind the movements.
By this operation, five kinds of concepts are abstracted and they corresponde to the composition of the paper. So the titres of every chapter reflects the concept of every term.
The ultimate object of this paper is to clarify the paradigme shifts of the concept of the western-style architecture conservations in the prewar days and to prepare a logic for the conservation of the architectures of same era..

■ 研究の目的
 本稿は、我国戦前における近代建築保存概念の変遷に関する考察である。
 1995年は敗戦50年にあたるが、大分県立図書館や神奈川県音楽堂などの戦後の名建築の保存が問題化している。それに対し、同時代の建築の保存の論理は確立されているとは言えない。
 本稿は究極的には、戦前の近代建築の保存概念の変遷を考察することで、同時代建築の保存に対していかなる論理の提示が可能なのかを探究するための、基礎的知識の導出を目的としている。
 そのための下位目標として以下の3つを掲げる。
 @戦前の近代建築保存事例をできるだけ多く調査する。
 Aそれらについて、時代ごとの保存概念を抽出する。
 B保存概念の時代的変遷を明らかにする。

■ 研究の方法と論文の構成
 研究の方法は、研究の目的で掲げた3つの目的を段階ごとに達成するために、以下のようにした。また、第2段階の成果をそのまま論文の構成に反映させた。
 前述のように、このテーマの既往研究は皆無であり、まず保存ムーブメントの有無という基礎的事実の発見を、基礎資料として、主に戦前の建築系雑誌や出版物を幅広く通読することで試みた。つまり、
 @基礎資料によって、出来るだけ多くの事実を発見する。(=クロノロジカルな整理)
 さらに、それぞれについて関連資料を検討することで前ページの図のような分類の設定をし、さらに一次史料や建築思潮などの非ゲシュタルト史料を加味することでその仮説設定を強化し、それをそのまま章立てとした。つまり、
 A一次史料等によって、時代や建築種別に共通する概念をまとめる。(=パラダイムの抽出)
 そして、それがいかなる変遷をたどったかについて考察した。つまり、
 B特定共時的概念を、通時的に再編することで、その変遷を明らかにする。(=パラダイム・シフトのトレース)
 上記の作業の結果、鹿鳴館については戦前の近代建築の保存問題が網羅的・象徴的に現れているために、論考の前後に導入と帰結として分置し、論旨の展開を解りやすくした。
 ところで、上記のような操作の不可避的欠点として、取扱う保存問題によっては、章立てと時間の前後関係逆転していたり、複数の保存概念に属するものを単一のカテゴリーで扱う場合もあり得ることを予断しておかなければならない。
 また、本稿は前述のように、未だ扱われたことのない戦前の近代建築保存がテーマであるために、@が設定されており、そのために、いささか事例の網羅的印象を与えることになることもお断りしておく。
 なお、事例は本稿で重点的に取り上げたもので、数多い基礎事実の中の一部であることも添言しておく。

序章:鹿鳴館の保存
 本論への導入として鹿鳴館の保存を取上げるのは、その保存へのムーブメントが、我国戦前の近代建築保存概念を網羅的に包含し、かつ保存が問題化した時期が、極めて初期であるためである。
 鹿鳴館はコンドルの設計で明治16年の竣工だが、条約改正失敗から等閑視され、ここに議事堂から近隣地に自らのサロンを探していた華族会館が目を付け、借用が決まる。そこに見られるのは、政治的概念が主で、建築自体の価値は極小である。
 ところが借用が決定すると、その憧れの鹿鳴館を子々孫々のために後生大事に保存したいという、遺材的概念を持つようになる。
 明治27年6月20日、東京地方を襲った地震で鹿鳴館は大きく破損し、宮内省は政策的に不要となったこともあり、華族会館への払下げを決定する。
 華族会館は、建替えか修繕かの選択を迫られるが、費用的には等価な2股の内から、修繕を選ぶ。つまり、減失のおそれのある建築を、後世に残す行為としての「保存」が成されたのである。
 日清戦争というナショナリズム高揚の時期にあって、そこに作用した概念は、自らの記憶の縁として建築を捉える、時代紀念的概念と言えるものであった。しかし、コンドルによる修繕は決して上出来とはいいがたかった。
 ところで、鹿鳴館の保存が網羅的といったのは、その保存概念や問題意識が後々にも観察されるからで、時代紀念的概念は文明開化建築に顕著な概念であり、これを第1章で、又それを支えた建築の美的価値に基づく保存論を第2章で、また震災被害建築に対する議論を第3章で考察する。
 小結:鹿鳴館の保存は、「他律的理由から建築自体の持つ時代紀念概念へという、初期保存概念の萌芽が見られる」とまとめられよう。

第1章:文明開化建築の保存
 鹿鳴館はコンドルによる設計で、オーセンティックな様式建築だが、明治初期の文明開化期に建てられた、御雇い技術者や日本人棟梁による「文明開化建築」の保存へのムーブメントはいかなる概念のもとに構築されたのであろうか。それらは主に明治中期に問題化した。
辰ノ口勧工場は明治4年、ウォートルスによって建てられたが、24年に取り壊されるに際して、我国で初めて建築家が近代建築の保存を主張した。その概念は、東京初の煉瓦造建築であるという技術史的紀念性、用途にまつわる社会学的紀念性があったことも推察される。
 また、日本人棟梁の建築に対する保存のムーブメントとして、本稿では、清水喜助の3大建築について重点的に研究した。
 築地ホテル館は明治元年に竣工し、明治5年2月26日の大火で焼失したのだが、隣の陸軍兵学寮が憧れて直写した建築だったということで、海軍によって石造アーチ門が保存された。その保存概念は、先績紀念性に基づいていた。
 海運橋三井組は、ヴェランダモティーフのベースの上を、入母屋屋根に唐破風を持った物見でまとめた、和洋折衷のデザインの建築であった。
 それが、明治31年に取壊されることとなり、建築家によって、具体的な行動が見られた。ひとつは、移築保存という超費用的行動の模索であり、もうひとつは、「実測図」と「記録文書」による記録保存の実施である。
 その背景には、当時建築界がようやく日本固有の建築様式の模索に覚醒し、巧まざる和洋折衷建築として見本視したという、先進性称場概念がある。また、記録作成者の清水釘吉に関しては、先先代の遺業を偲ぶという儒教的道徳概念があったと考えられる。
 駿河町三井組は、三井家が存亡をかけて一族の象徴となるべく建設した建築であり、ヴェランダモティーフのベースの上に鯱を抱き、さらに随所に和風意匠を用いた和洋折衷建築であった。
 それが、明治30年に取壊されることとなったとき、三井家が我国近代建築保存史上初の部材保存を行った。
 保存された部材の内に、家具やシャンデリア等小さいインテリアの他に、鯱や門といった大きな部材が含まれていた。この鯱などの保存は、前述のような儒教的道徳概念もあったろうが、維新を経てそれまで禁止されていた建築意匠をこれみよがしに使えるようになったことを紀念する、ブルジョワ革命紀念概念が中心的であったと考えられる。
 小結:この時代の近代建築の保存概念をまとめれば、「建築自体の質は問わず、それにまつわる紀念性に基づく概念が根底にあった」、といえる。

第2章:都市の時代の保存論
 東京は明治後期から大正初期にかけ急速に都市化するが、建築家や評論家も、「都市景観」の意識を持つようになる。
 そして、その都市の時代の意識は、近代建築保存概念の中にも萌芽することとなる。
 新橋停車場は明治4年、御雇い技術者のプリジェンスによって設計された木骨石造建築で、駅舎建築の嚆矢にあたる。
 この建築が大正3年、烏森駅と名を替えて貨物駅化し、放置される危険をはらんだ時に、評論家・黒田鵬心ニよって保存論が展開された。因にこの論説は新聞に発表された最初の近代建築保存論で、近代建築保存論の大衆化の嚆矢といえる。
 その概念として、先ずこの論説は現存する東京最古の建築であるという、建築史的紀念性が見られる。そこでは前章同様質は捨象されている。しかし、そこには建築を擬人化して捉えようとするラスキン的ロマンティズムが観察される。
 さて、この保存論が画期的なのは、保存建築物を都市整備の一構成員として周辺へ展開させようとする、アーバンデザイン的概念を有していた点である。また、保存のための転用を主張した濫觴ともいえ、しかも建築や都市の文脈を踏まえていた点も先駆的である。
 このアーバンデザイン的概念と転用の考え方は、大正博覧会学芸館を通俗教育博物館とする際にも観察される。
 工部大学校キャンバスは、生徒館・工作場がアンダーソンにより、中堂がボアンヴィルにより設計されたが、後者は我国初の本格的様式建築としての重要性を持つ建築である。
 工科大学移転後、学習院、虎ノ門女学館、宮内省図書寮などとして利用されていたが、講堂は明治27年6月20日の地震などによる痛みが激しく放置されてきた。
 それが大正6年の明治50年にあたって注目され、保存論が見られるようになる。
 それは先ず、叙述の仕方が非常に浪漫的で、印象派的概念で建築を捉えている。あるいは廃虚への憧憬は、ラスキン的ロマンティズムといえるかも知れない。
 また、建築自体の質を問う、審美的概念が萌芽している。この建築の場合でも保存のために、建築・都市の文脈に沿った、明治文化博物館への転用が主張されている。
 さらに、伊東忠太などはタウンスケープの観点から保存を考える、都市美観的概念に基づく保存論を述べているのが、画期的と言える。
 小結:この時代の近代建築保存概念をまとめれば、「建築自体の美しさや、アーバンデザインの発想に基づく概念が根底にあった」、と言える。

第3章:震災被害建築の保存問題
 鹿鳴館が地震で破損したときは、取壊しか修繕か、という次元で保存概念の生成が観察された。
 では、大正12年9月1日の関東大震災の「震災被害建築」に対しては、いかなる保存論が展開されたのであろうか。
 日本橋は明治44年、妻木頼黄の設計によって架けられた、我国の道路原標となる橋である。
 この橋も石材が焼け修繕が必要となったが、先ず興味深いのは、壊れたものをそのまま保存し、記憶の縁としたという、震災メモリアル概念の生成だ。この背景には、廃虚に憧憬をよせるラスキン的ロマンティズム(前章参照)があるのかも知れない。しかし、帝都の顔である橋である以上、放置するのはみっともないし、復興気分をそぐものだという、帝都美観概念がまさり、元通りの修繕のうえ保存された。
 ニコライ堂は明治24年、コンドルの設計によって建設された教会であったが、関東大震災で被災し、ドームや塔が焼け落ち、璧体だけが残された。
 この保存論でまず問題化したのは、塔はロシアビザンチン様式にはないから、復元したくないという、神父の様式殉拠指向であった。
 また、この建築も廃虚保存の意見があったが、その概念はむしろ、廃虚の美学に基づく、廃虚ロマンティズムとでも言えるものだった。
 しかし、結局復興することがきまり、設計は早大教授の岡田信一郎が担当することになったが、この復興の設計をめぐり、議論がたたかわされた。
 我国では震災前から、いわゆる構造派の発言が大きくなり、震災でその優位は決定的となり、復興建築も耐震構造が義務づけられた。
 そのため、復興ニコライ堂も塔が低められドームを高くし、さらに様式意匠的にも幾つかの点で変更が加えられ、以前とは全く違う姿となった。
 これを批判したのが、「科学の上に立つ芸術」であるとした中村鎮である。
 彼の保存の概念は、傑作の保存は構造を超越し、もとのままにあるべきだという完璧復元概念であった。そして、法的指定をしておくべきだったという、洋風の近代建築に対しては初めての法定保存概念も生成している点が注目される。
 浜町公園内記念碑は、コンドルが明治14年に設計した、開拓史物産売捌所(震災当時は日銀倶楽部)であったが、震災で焼け落ち、復興区画整理のために取壊されることになった。
 その際、その残材を利用して造られたのがこの記念碑である。
 その保存概念は、先ず設計者にまつわる建築史的紀念性、建築の美しさと様式構成要素を用いることが出来るという、建築の美的価値、そして震災メモリアル概念というかつて見られた保存概念の結晶化したものであった。
 小結:この特異な時代の近代建築保存概念は、「震災の紀念を廃虚に託すロマンティズムと、文化財的復元概念が萌芽した」とまとめられる。

第4章:近代建築史学の誕生
 保存論を展開しようという場合、建築にまつわる諸情報が充分に確立されていれば、対象の取捨や論理の構築が容易であり、この基礎情報の形成をするのは、建築史の作業である。
 近代建築史学の誕生は、逆説的に考えれれば近代建築が明確に保存の対象となりつつあったことを示している。
 保存のための建築史ではなく、史的整理の結果としての保存は、辰ノ口勧工場における技術史の果たした役割など、明治中期から見られる。
 また、建築学会が近代建築の資料収集に組織的に着手したのは明治39年である。しかし、これも紀念性概念に基づく資料減失防止の域をでない。
 大正6年は明治50年にあたり、この時代意識に基づく明治史編纂の動きが見られれたが、保存のための歴史形成には至らなかった。
 保存のための建築史の形成は、やはり関東大震災による大規模な減失を体験しなければ萌芽しなかった。
 日本近代建築視をプロパーとした最初の建築学者は堀越三郎である。
 彼は既に震災以前から、錦絵に現れた初期明治建築についての記事を執筆しているが、彼自身有名な錦絵コレクターであり、記事も錦絵評論的色彩が濃い。とはいえ、錦絵などによる資料保存の弱さについては認識できている。
 震災後彼は、学術的論議にも耐える近代建築史を誕生させ、昭和に入ると数多くのその成果を発表していった。そして、震災等で失われた近代建築のパイの絶対数の少なさから、保存論を展開するにいたる。
 その概念は、前章までに見た紀念性(第1章)や美的室(第2章)などに、もはや言及できず、稀少性にまで追いつめられている。
 さらに彼をして近代建築の保存を唱えせしめたのが、戦禍による減失への不安であった。その概念には、前述の稀少性に加えて、建築の保存を媒体にした反戦概念が見られる。
 ただ残念なのは、せっかく保存のための近代建築史に到達していながら、彼自身は学究の一部として記録保存をしたに過ぎず、具体的な実体の保存を史学に基づいて主張することはなかった。
 この時期の、震災復興建築以外の保存事例で興味深いのは、明治生命の部分移築である。これまでにも部品保存はあったが、旧建築の一部を保存し、新建築の一部に意匠的に取込む操作はこれが濫觴である。しかし、保存概念は、コンドル設計であったという、建築史的紀念性・建築の美的価値(前章参照)に基づいており、他の近代建築に波及できる論理ではなかった。
 小結:この時代の近代建築の保存概念をまとめれば、「近代建築史学誕生の契機である稀少性に基づきながらも、それ以上の概念を提示できず、紀念性や美的価値に留まっていた」と言える。

第5章:制度としての保存
 ニコライ堂の復興に関し、中村鎮が洋風建築に対しても保存制度を拡充しておくべきだったと主張したのは、第3章で見たとおりだが、近代建築の保存が、「制度としての保存」に達するのはいつで、いかなる概念のもとにであろうか。
 この概念にはふたつの系譜があった。
 ひとつめの、「由緒の系譜」では、建築の質は問われず、それにまつわる由緒、とりわけ天皇との関係が保存概念となる。
 乃木邸はこの濫觴である。明治44年、明治天皇に殉じた乃木希典の意志により東京府に寄付された邸宅は、軍神史蹟的概念に基づき保存が主張され、市によって乃木神社の一部として公的に保存されることになる。
 大正8年制定の「史蹟名勝天然記念物保存法」は、昭和8年の明治天皇聖蹟指定を皮切りに右傾化し。由緒に基づく近代建築保存を、国家的に制度化することになる。しかし、そこには、質のタブー視が見られ、近代建築独自の保存概念は包含されていなかった。
 西郷従道邸は明治10年代、御雇い技術者のレスカスの設計で建てられた、ヴェランダモティーフを持つ初期明治建築の典型で、これまで述べてきた様々な保存概念が想定されるところを、聖蹟概念のもとに保存された。
 泉布観は明治4年、ウォートルスにより設計された初期明治建築で、西郷邸同様に様々な保存概念があるにもかかわらず、「泉布観」の名付親が明治天皇自身であったこともあり、まず大阪市が聖蹟概念のもと保存し、さらに史蹟名勝天然記念物保存法により制度化された。
 ふたつめの系譜の「国宝の系譜」には、戦前では僅かに2例があるのみである。
 大浦天主堂は元治元年、神父であるヒウレにより建設されたナマコ壁と瓦葺という和風意匠を持つ教会建築である。
 しかし、指定までには様々な紆余曲折があった。
 まず、この建築の価値自体が疑問視された。
 つぎに、法的保存は認めるが、史蹟で良いではないかとする、近代建築国宝指定反対論があった。
 そして、近代建築も国宝にするのは良いが、指定基準を確立すべきだという、指定方針先決論が見られる。
 結局保存概念は、時間的先行性にまで削られた。
 もうひとつの国宝である尾山神社神門は明治8年、棟梁津田吉之助によって建てられた、神社でありながら和洋折衷でデザインされた建築である。指定事由は、デザイン好事概念に基づくとでも言えるものだが、全く説得力に欠ける。
 結局、この系譜には一貫した保存概念はなかったといえる。
 小結:この時代の近代建築の保存概念をまとめれば、「制度化はされたが、聖蹟概念のもと質がタブー視され、国宝指定には確固たる概念がなく、保存概念は著しく無力化した」とまとめられよう。

終章:鹿鳴館の取壊し
 前章までに、明治以来様々な保存概念が生成していながら、昭和に入ると制度としての保存のためにそれが著しく骨抜きになる過程を見た。
 そして戦争直前、鹿鳴館と砲兵工廠という名建築が取壊されるが、これこそは戦争による大量破壊の前触れであったのかも知れない。
 鹿鳴館は、関東大震災により内部が破損し、昭和2年に華族会館から日本徴兵保険に売却された。
 同社取締役前山久吉は鹿鳴館の諸価値を踏まえ、事務局などには転用せずに保存した。その保存概念は、建築史、文化史、政治史、利用価値、美的など建築にまつわる総合的概念であった。その後、国宝又は史蹟指定の話もあったが、前述のように、制度としての保存に充分な概念が確立できていないために、実現していない。
 昭和15年、非常時の掛け声のもと商工省が目を付け、バラック庁舎を建てるため取壊しを開始したが、それが報じられると早大教授で商工省参与官の喜多壮一郎が転用を進言したが遅かった。
 これほどの建築に、建築界では何の保存論も開陳されなかった。わずかに部品保存がなされただけであった。
 取壊しも終った頃になり、史蹟関係者から文化史的概念に基づく保存論が出されたが、後の祭りに過ぎなかった。
 砲兵工廠コンドル設計で、明治22年頃の竣工だが、関東大震災で大きく破損し、荒れるにまかせられていた。
 これを殷したのは、都市計画道路で、そこには名建築との共存思想は皆目見られない。また、建築界の反応も冷たかった。
 小結:この時代の近代建築保存の概念をまとめれば、「人々の良心的保存概念は認められず、非常時の掛け声や都市計画のもと、保存概念は国家によって解体された」トまとめられる。

結語:我国戦前における近代建築保存概念の変遷
 本稿では、若干の時間的な前後関係の逆転や概念の単・類型化をしたものの、「研究の方法」で述べた手順に従い、我国戦前における近代建築の保存概念を時代ごとに大まかに整理した。その変遷をたどれば以下のようになろう。
 まず、明治の中頃に鹿鳴館の保存において、建築以外の他律的要因から、建築自体のもつ時代紀念性という自立的要因に基づく保存概念の萌芽が見られた。
 その概念は、和洋折衷建築などの保存の場面で、質は問わず、その建築にまつわる紀念性に基づく保存概念に通底してゆく。
 やがて、明治後期から大正前期にかけ、建築意識の成熟や都市の時代に呼応して、建築自体のもつ美しさやアーバンデザインの意識を含んだ保存概念が開花した。
 関東大震災による破壊は、建築に震災の記憶を託す廃虚の美学や、名建築はそのままにしておきたいという文化財的発想を生み出した。
 また、震災によって産み落とされた近代建築史学は、希少性に基づく保存論を展開したが、それまで以上の保存概念を提示することが出来なかった。
 一方、近代建築を制度として保存しようという動きが昭和初期に現れるが、そこでの近代建築の保存概念は天皇制の論理の前に口を閉ざされ、文化財的保存も有効な論理を見いだせず、保存概念は著しく無力化した。
 結局、保存概念が充分に成熟しないまま、無力化したまま、むしろ国家によって解体され、鹿鳴館や砲兵工廠といった名建築が取壊され、戦争による大量破壊が追打ちをかけ、敗戦を迎える。
 以上が本稿の論考のまとめだが、ここで戦後の近代建築の保存を概観しておきたい。
 敗戦後、「ヒューマニズムの建築」としての機能主義陣営から糾弾を受けた近代建築は、昭和30年代に、高度成長による破壊と、明治100年という時代意識のもとにようやく近代建築史学が再生し、保存論が萌芽した。その概念は「稀少性」であり、新最後の近代建築史学の保存論と全くの同位相を見せる。
 そして、文化財としての保存論が叫ばれるが、その論理が経済原理や都市計画に対して有効性をもてなかったのも、昭和初期から戦争前までと同じである。
 しかし、オイルショック以降、我々は新しい保存論理を持つことになる。
 「まちづくりの視点」がそれである。
 これはふりかえれば、質は問わずに建築にまつわる人々の記憶や、その景観的美しさ、アーバンデザインの中での位置づけなど、我国戦前における近代建築保存概念の中で、極めて初期の段階で観察された発想なのである。
 しかし、戦前の国家主義体制下ということもあり、十分に人々が熟成させることの出来なかった論理なのである。
 我々は。大きな誤りの後、ようやくここに回帰したのだ。
 この、古くて新しい概念を深化させること。
 それが、我々に課せられたおおきな宿題である。

<主要参考文献>
・色川大吉:「明治精神史(上)(下)」、講談社学術文庫、1976。
・中谷礼仁:「国学・明治・建築家」、一季出版、1993。
・井上章一:「法隆寺への精神史」、弘文堂、1994。


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