丸の内地区の市街地形態に関する考察
A Study on Urban Form in Marunouchi District
66145 水谷宏杉

This study basically investigates urban form in Marunouchi district, Tokyo, from three points of view. First, scenic elements have made hierarchical order by historical stages. Concern to cityscape proved gradually diminish in size of scenic elements. Second, increasing freedom in design and development in building act amendments result diverse form and character of each area, as well as respective building types of each period. And third, through examination of public/private sectors' policies, an upcoming movement to form cityscape is confirmed but it still need to establish effective rules.

0. 本論文について

目的
 丸の内は東京駅と皇居の間という枢要な位置を占め、近代以降の日本の歴史をその市街地形態に刻みつけてきた。東京や日本をリードするビジネスセンターとして、それぞれの時代を画すオフィスビルが建てられてきた経緯はよく知られている。が、それだけの重要な歴史を背負ってきたにもかかわらず、一丁倫敦型といわれた初期の建築は既にほぼ姿を消し、一丁紐育と呼ばれ東京駅前の印象的な景観を形作った建築群も、1997年の丸の内ビルヂング解体を契機として更新の時を迎えつつあるように見える。現存する建築の多くは戦後に建てられたものとなったが、それでもなお、年代をずらして形成されていった市街地形態は歴史の重層性を示すものであり続けている。
 近年の動きは丸の内市街地の更新を現実のものとしつつあるが、これから数十年にわたって行われる更新が歴史の綾を克明に読み取ったうえ、それに十分に配慮して行われるならば、丸の内の街並みはその魅力をさらに高めることが期待される。本論文は、現在の市街地形態に繋がる丸の内の形成根拠を明らかにし、かつ将来の市街地形成・都市景観形成に結びつくような動きを捉え論ずるものである。

方法と構成
 本論文では図1に従い、丸の内の市街地形態の形成過程を大まかに三つの過程に分ける。それぞれの特徴は以下の通りである。
1.インフラ形成:現在の都市骨格が整備され、それが直接地区の景観形成に繋がった過程。
2.建築生成:建築の容積最大化の原則のもと、法制度に従って建築形態が定められ、現況の市街地を形成するに至った過程。
3.地区更新への議論:今後の市街地形成に繋がる議論の過程。
各過程を1〜3章としてそれぞれ論じ、4章で総括を行う。

図1 本論文の構成フロー

対象区域について
 本論文が対象とする区域は、東京都の都市再開発方針に定められた東京駅周辺再開発誘導地区の約111ヘクタールである(図2)。本論文において単に「丸の内」あるいは「丸の内地区」と表現するときは上記の範囲を指すこととする。丸の内1〜3丁目、大手町1丁目の一部と2丁目、有楽町1丁目と2丁目の一部がその区域に相当する。 また、本論文において特に断りなく「現在」と表現したときは、丸の内ビルヂング解体の直前、すなわち概ね1997年前半をさすこととする。


図2 東京駅周辺地区
(東京都都市再開発方針・再開発誘導地区)
1. 都市骨格の形成と景観構造

 丸の内市街地の骨格をなすインフラストラクチャーがそれぞれどのような景観形成を意図してつくられたものであるかを考察する。

江戸の建設期
 現在の丸の内に相当する地区は、江戸幕府成立を機に諸大名・旗本のための武家地として整備が進められた。町割りは図3のように、山アテ等の手法により周辺のランドマークを意識して構成されたものであった。このことにより市街の骨格全体が景観的に組み立てられたことが示されるが、バロック都市とは異なり、それらのランドマークはアイストップであるにすぎない。都市全体の骨格となる強力な軸線は存在せず、街路は不意に少しずつ折れ曲がるもので、モザイク状に分割された小地区それぞれが独自の景観構造を持っていたことが窺える。
 丸の内地区に関わる街路景観構造としては、以下の2点が挙げられる。
・大名小路の方角
 地区を南北に貫く大名小路は上野忍ヶ岡を目標としている。
・街路のアイストップとしての天守
 天守を真正面に見ることのできる通りは、通三丁目から数寄屋町と檜物町の間を抜ける通りと、神田蝋燭町から富山町を経て富松町に突当たる道筋(元誓願寺前通り)と、一石橋と日本橋の間の日本橋川の水路である。


図3 寛永・承応期江戸市街中心部構成図

鉄道敷設
 新橋−上野間が1910年、東京−上野間は1925年に完成、また現在の駅舎が完成するのは1914年である。武家地であった丸の内と町人地であった日本橋の間隙をうまく縫いながら、江戸期のモザイク状街区に鉄道敷が挿入された形となった。
 行幸通りが江戸時代からの街区割りを踏襲し直行グリッドパターンを形成しているのに対し、東京駅のファサードは線路に沿って並行に建てられたためこのグリッドパターンとは厳密に直行せず、2度ほどずれて建築されている。

東京駅と行幸通り
 東京駅と行幸通りの構成は典型的なヴィスタ景をなすが、各要素のスケールバランスが欧米のヴィスタ景と異なり、絞り込みが不十分でパースペクティヴな印象が充分演出されていないとの指摘もある。それでも戦前の東京駅前には、象徴的建築、軸線街路、並木、沿道建築といったヴィスタ景を構成する要素や平面配置がほぼ揃い、印象的な眺めを形成することができたが、結局その景観構成も20年ほどしか続かなかった。沿道ビルの高層化と壁面線後退、東京駅駅舎のスカイラインを越える八重洲側駅ビル、地下駐車場建設の際の並木の消滅等により、東京駅への求心性が崩れ、行幸道路のバロック的構成はますます印象の薄いものとなっていった。


図4 現在の行幸通り付近


図5 昭和5年頃の行幸道路

その後の変化
 その後の丸の内における市街地構成の変化として、角地のデザインを合わせたりするなど、主に建築デザイン上の配慮へと移っていったことが指摘される。

まとめ
 丸の内におけるインフラストラクチャーの形成過程は、都市景観形成のプロセスそのものであった。江戸建設時の都市骨格にいくつかのインフラが付加されていき、それが地区の景観構造を形づくっていったことが確認できた。整備されたインフラを前提に建築が成立するということ自体が東京では希有な例と言えるが、インフラから建築へという市街地形成の流れができていたということと、主要な景観要素がマクロなものからミクロなものへ、遠景から近景へと移っていったことは、市街地要素の階層構造と景観の階層構造が一致していたことを示す。景観要素の空間的広がりが徐々に狭まっていき、景観概念自体も矮小化していった過程が、丸の内という地区において明快に表れたといえる。

2. 建築関連法制度からみた市街地形態の検証

 丸の内は日本でもっとも初期に近代都市基盤が整えられた地区であり、いくつかの法制度制定の際にはその市街地形態が参照された。本章では各時代の建築類型が法制度により説明されるという認識のもと、丸の内地区において特徴的な一角と建築形態、その成立の根拠となる法制度、及びその景観への表れを論ずる。


図6 現況建物の建設年代


図7 丸の内鳥瞰図

東京駅周辺
 東京駅前を中心に、大正〜1950年代前半の建築がみられる。図8に挙げるような建築群は市街地建築物法(1919年)に基づくものとみることができる。

図8 旧法に基づく東京駅周辺の建築

 住居地域以外における100尺(31m)の絶対高さ制限は市街地建築物法で採用された。制限が撤廃される1960年代までの建物は原則的として高さが揃った建築であり、丸の内の特徴を形作る。
 市街地建築物法は当時の欧州の建築線制度を採用し、建築線より突出する建築を規制した。地下部分については街の体裁を整えるうえで影響が少なく、規制の対象外とされた。また、同法では商業地域における建蔽率を80%以下とした。地下については、その外壁の高さが地盤面上6尺以下のものの部分は建築面積に含まないこととした。
 この建蔽率と建築線制限の結果、丸の内八重洲ビルや国鉄本社ビル旧館のように、地下室があり前面道路沿いに「からぼり」をもつ建築が生まれたと考えることができる。

 
図9,10 旧国鉄本社ビル(左)と丸の内八重洲ビル(右)

仲通り沿い
 行幸通り以南の仲通り沿いには1965年代前半の建築が並び、統一感ある印象を与えている。これらの建築は当時の建築基準法に基づいた形態をとっている。1950年の建築基準法においても市街地建築物法と同じく住居地域外は31mを高さの限度とした。1963年の法改正により容積地区が生まれ、1965年に容積地区指定されるまでこの高さ制限は堅持されることになる。
 1950年代には既に9階建ての建築が丸の内に現れるようになっていた。従来の丸の内の建築は31mの枠内で8階建て以下であったが、経済性の見地から9階建て利用の研究が続けられ、実行されるようになった。初期の例としては日活国際会館(現日比谷パークビル,1952)や大手町ビルヂング(1958)等がある。このことは開発圧力の大きさを物語り、絶対高さの規制から容積の規制へ向かう転機になった一つの出来事だと指摘できる。

 仲通り沿いの統一感ある建築群は、直接には三菱地所による「丸ノ内総合改造計画」によって生まれたものである。馬場先通りと仲通り沿いに立ち並んでいた赤煉瓦建築や大正初期の鉄筋コンクリート建築が老朽化し手狭となったため、1959年から実行された。
 当初の仲通りは幅員13mであり、道路斜線制限のためにそのままでは十分な容積が確保できなかった。そのためにとられた手法は、仲通りの裏側にあった私道を廃止しして大ブロック化を図り、仲通りを13mから21mに拡幅するというものであった。図11のように、上部をカットしない31mの建築を実現するためには、道路幅が21mになるよう両側のセットバックした位置に壁面線を指定することが必要だったことがわかる。仲通りの幅員はこのことにより定まったと考察される。さらに、それぞれのブロック上の建物が同一敷地内にあるように一団地扱いの認定を受けた。

図11 仲通りの断面構成(1959年当時の制度による)

 また、1963年に高さ制限が解除されたことをうけ、従来31mであった建築の多くが屋上部分に1層分を増築した。1960年代後半以降の建築に関しても、三菱商事ビル(1971)や明治生命別館(1981)など、道路斜線制限等のため10階以上の部分がセットバックして建てられている。
 31m以上の部分がセットバックしているため、建築の高さが意外に不揃いであるにもかかわらず、日比谷濠端のように引きがない仲通りでは地上から上階の様子を捉えにくい。

永代通り沿い
 大手町の永代通り沿いには1980年代以降の建築が集まり始めている。これらの多くは総合設計制度を用いて建築され公開空地をもつが、空地の配置に関しては敷地内で完結してしまっており、連続性等といった全体への配慮には乏しい。


図12 総合設計による建築

大手町北側
 当初から適用されてきた道路斜線制限に加え、1963年に絶対高さ制限が廃止されたことにともない、採光や圧迫感等への配慮から隣地斜線制限が導入された。
 対象地区の北端にあたる大手町地区北側では前面道路幅員が十分でなく隣棟間隔も狭いために、斜線斜線制限をまともに受けた建築がみられる。
サンケイビル新館(1973)・経団連会館(1966)はそれぞれ道路斜線・隣地斜線に従って建物上部を斜めにカットした建築である。他の建築に関しても上部をセットバックするなどの例が多くみられ、市街地形態としては統一感に欠けた、雑然とした印象を受ける。

まとめ
 丸の内地区の市街地形態は、特に建築形態の面において相当程度に法制度によって決定されてきた。開発圧力が非常に高いために、日本の建築関連法制度のもっとも新しい面が顕在化していたといえる。
 大きな変化の方向としては、総体としての市街地コントロールによる建築不自由から、原則的な建築自由と局所的な近隣関係の調整へという側面が指摘できよう。同時代の建築が領域ごとにある程度まとまってみられるために、法制度の変遷がおぼろげながらも領域別の特徴となったことが示された。
3. 今後の市街地形成へ向けた枠組み

 様々な主体が1980年代頃から将来像の検討を始めており、その流れは現在もなお進行中である。それぞれの論理を整理・確認したうえ、現実の市街地形態を規定しうる建築関連法制度への反映について考察、さらに現在行われている議論の結果としてどのような市街地形態が形成されていくことになるのかを予測し、その妥当性や可能性の幅について検証していくこととする。


図13 丸の内をめぐる主体の関係

東京都の都市計画行政
 東京都は都心・副都心等多くの業務中心を擁し、各々のバランスをうまくとりながら発展・育成させていくという方策をとり、都心部については更新都心という位置づけで既存施設の更新を図っていく姿勢を示している。オフィススペースのさらなる都心への集中を抑制する一方、従来欠けていた交流施設等の導入を積極的に進めるとしている。丸の内地区については、「都市再開発方針」のなかで、東京駅周辺地区を再開発誘導地区 のひとつとして指定している。
 「業務商業施設マスタープラン」において都心を「業務商業重点地区」に指定、それを受けて、特定街区・高度利用地区等を用いて開発を行う際に、従来の容積率最大1,200%からさらに増加して、1,300%の開発が可能となる等の動きがある。

東京都の景観行政
 1981年以降、東京都は文化行政の一貫として「都市美」とよばれる一連の景観施策に着手している。1988年に「都市美ガイドライン」を作成、以降の具体的展開として「都施設デザイン事業」「地区景観整備事業」「歴史的建造物の景観意匠保存事業」が開始されている。1994年には景観施策の体系が「東京都都市景観マスタープラン」に示された。さらに条例の制定が検討され、1996年に「東京都都市景観条例検討委員会」が発足、1997年に条例の骨子案を報告している。

・東京都都市景観条例
 同条例の骨子案では基本的な考え方として「規制などの強制力によらずに一定の合意されたルールのもと、都民と事業者自らがつくっていく方法がとられるべき」との姿勢を示す。現行法規上条例において罰則規定を設けることは困難であるが、実効性を担保するため、基準・指針や制度を守らない者について氏名等を公表するなどの制度を設けるとしている。
 具体的な仕組みとしては、以下の二点を挙げることができる。
・東京全体の景観上特に重要な帯状の空間を「景観基本軸」とし、広域的観点から都が特に積極的に取り組む。
・「公共事業」「特定行為」「歴史的建造物の保存と歴史的景観の保全」の項目を設け、重点的に施策を進めることによって景観拠点とする。
 区市町村が独自に行う景観施策との連携については、都の役割を「広がりのある特徴的地域ごとに景観づくりの方針を示し、区市町村の景観施策に対して支援や助成を行うこと」と位置づけている一方、地域特性に応じたきめ細かい景観づくりに関しては区市町村の課題としている。具体的には、「特定行為」の届出制度において、都と同等以上の制度を有する区市町村の場合には都の条例を適用除外する方針であるが、景観基本軸においては、二重行政にならないよう十分留意したうえで、広域的な観点から都が責任を持てるようにするとしている。
 丸の内地区は「景観基本軸」の一角に位置づけられる予定である。

千代田区の都市計画行政・景観行政
 千代田区は都市計画行政との一体的運用を目指して一連の景観施策を行ってきた。都市計画マスタープラン策定と並行して策定作業が進められている景観形成マスタープランは、一連の施策の集大成とも言える。都市計画・景観施策の経緯は以下の年表の通りである。

1987. 千代田区街づくり方針
1989. 都市景観行政指針
1991. 千代田区都市景観誘導指針
1992. 千代田区新基本計画
1993. 千代田区都市景観形成方針
1998. 景観形成マスタープラン(予定)
    都市計画マスタープラン(予定)

・千代田区景観形成マスタープラン
 「千代田区基本計画」の実施計画に位置づけられた「風格ある都市景観を創出する」ための重点事業として策定された行政計画であり、都市計画マスタープランにもとづく分野別計画という位置づけである。1993年に策定された「千代田区景観形成方針」を受け継ぎ、区がめざすべき景観まちづくりの目標像と実現の方策を示すとしている。
 具体的には「景観形成マニュアル」及び「地区景観形成ガイドプランの手引き」と一体的に運用されることになる。景観形成マニュアルは景観形成のために用意されたキーワードによって構成され、キーワードは建築の設計ガイドや自己チェック、また施主・設計者と行政の対話の材料として用いられ、地区別のガイドプランや新たなキーワードを検討する際の手引きとしても機能する。

大手町・丸の内・有楽町再開発推進協議会
 地権者である約100の企業・団体が中心となり1988年7月に設立した。東京都の都市再開発方針に定められた東京駅周辺再開発誘導地区を対象とする。
 協議会の発足に先立つ1988年1月、丸の内最大の地権者である三菱地所が、丸の内マンハッタン計画とも呼ばれる「丸の内再開発計画」を発表している。三菱地所は後にこの計画を取り下げることになるが、そのスタディ結果が協議会の検討に大きく影響していることは十分に考えられる。

大手町・丸の内・有楽町まちづくり懇談会
 「『丸の内』の新生」に盛り込まれた官民協働の考え方を受けて、1996年9月3日、「公共と民間の協力・協調により魅力あるまちづくりを進める」ため、大手町・丸の内・有楽町地区のまちづくり関係者の懇談の場として設置された。「協議会」のほかに、千代田区、東京都都市計画局、およびJR東日本が加わった構成となっている。地権者の集まりである「協議会」が進めてきた議論と、行政側の考え方をすり合わせる場とされており、検討区域は協議会と同様である。

まとめ
 容積率指定をはじめとした建築関連法制度が実質的な市街地形態形成を決定してきたが、近年の動きではそれに加え、景観施策が実効力を持ったコントロール手法として定着する動きを見せている。だが一方、半ばなし崩し的に個々の敷地で建て替えが進んでいく瀬戸際のところにあり、そのための準備は着実に進められつつある。一連の景観施策の展開はまだ途上といえそうであるが、効力を持った手段としてオーソライズすることが急がれるだろう。

4. 総括

(1)インフラストラクチャーがつくる景観構造を下敷きとして、その上に建設年代に対応した類型にもとづく建築がつくられ、市街地形態を決定していった構造が読みとれた。時代が下るに従い、主要な景観要素がマクロなものからミクロなものへ移り、関心が遠景から近景へ移っていったことが説明された。

(2)景観要素の空間的広がりが徐々に狭まっていったことは、地区に即した都市基盤設計から欧米様式の移入へ、さらに進んで、厳格な建築規制から建築形態の自由度増大へという一連の流れと軌を一にしている。

(3)丸の内地区全体に均一な市街地形態が広がっている訳ではなく、特徴的な領域によってある程度の分節が可能である。そしてその領域別差異は、それぞれの領域の開発年次、およびその時点での法制度による説明が有効であることがわかった。概ね同時期に形成された建築群として、行幸通り以南の仲通りを挟んだ街区、永代通り沿いの領域等を挙げることができる。

(4)地区計画などのように、将来の市街地像を定め実現を担保する方策は現在の丸の内に欠けている。1970年の建築基準法改定による新法体制は容積のコントロールと近隣関係の調整に焦点が当たっている。総合設計等の多様な手法の導入もあり、広域的な景観形成の視点が盛り込まれていないことがここからも指摘される。

(5)いっぽう、1980年代以降行政の中でも景観形成への動きが高まりつつあり、市街地形成に関与しコントロールしていく手法の整備が期待される。(2)の経過により現在の丸の内地区の景観構造を一義的に定義することは困難になってしまったが、残されている都市骨格や(3) で示したような特徴が景観形成施策の手がかりになるはずである。


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