木下 光
香港における市場空間の成立とその変容に関する研究 : 九龍・油麻地地区をケーススタディとして


内容要旨

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 市場(いちば)はいかなる都市にも必ず存在し、その形態や空間はその都市の個性を表している。特にアジアの諸都市は市場の混沌としたかつ活気ある雰囲気が都市の印象と重ね合せられる場合が多い。そして、路上で営まれていた市場は人々の生活水準の向上や都市の拡大に伴う再開発によって姿を消し、行政によって建物の中に収容・管理されるのが一般的であり、その結果、人々は減少したストリートマーケットや屋台の行為を含むその空間に対し愛着を抱き、それらはしばしば観光施設となる。こうした市場空間の変遷はこれまで都市計画学においてあまり議論されてこなかったが、アジアの都市の歴史や高密度な都市居住を考察する上で市場空間は重要なキーワードとなるものであり、都市計画的視点から市場空間を評価する必要性がある。その意味で今日においてもその形態だけでなく、役割としても生活施設から観光施設まで都市全域にわたって多様な市場空間を持つ香港は、その成立と変化の過程を分析する格好の都市であり、かつその歴史は香港の都市形成史を考察する重要な一断面を示すものでもある。

 そこで本研究では、街市と呼ばれ建物である公設市場と小販(Hawker)と呼ばれる露天商で構成されるストリートマーケットを市場空間と定義し、香港島、九龍、新界という三つに大別できる地域の中で、イギリス植民地となった当初からの古い歴史を持つ香港島北岸及び九龍半島を主な研究対象とし、その中でも九龍の油麻地地区をケーススタディとして考察を行った。

 その研究目的は、まず香港における市場空間に対する政策の歴史を中心として市場空間の変容背景をまとめ、市場空間の形態や分布がどのように変化したかを考察し、さらに油麻地地区のReclamation St.とTemple St.を事例としてとりあげ、その機能的役割を把握した上で日常生活に不可欠な市場空間と地区の空間構成や居住形態との関係性を解明し、今後の都市構造の中でどのような変化がおきるのかや市場空間の果たしうる役割とは何なのかを再評価するというものである。

 本論文の構成は1章の序章をはじめとして以下のようになっている。

 2章では政庁がどのように香港の市場空間を管理しようとしたのか、その歴史の中で香港島が割譲された1841年から第二次世界大戦前までをHong Kong Annual Administration Report 1841〜1941/42に掲載されている年次報告書を中心に政策分析を行った。この約100年間の街市・小販への政策は主に街市中心であり、生鮮食料品の供給源を一括して集中管理する目的が強かった。その理由として、街市は中国人居住地区の核であり、その居住における衛生管理計画の要でもあったことが挙げられ、公設市場として公平な商取引を確立する意味も含まれていた。

 3章では1946年から1997年までの街市及び小販に対する戦後の政策分析を行った。戦後は2章の戦前と対照的に小販中心の政策、すなわち急増する難民による小販の増加をいかに秩序づけるかということが最大の命題となり、その対応が結果的に街市の政策を決めるという構図をうんだ。それまで「小販を徐々に除去する」という政策方針が180度転換し、小販は香港の生活における永続的な特徴としてその存在を追認した上で、行商小販のライセンスが無制限に発行された。さらに固定式露店の規格化や再配置、そして小販をまとまったオープンスペースに集めた小販バザールの設置がなされる一方で、街市は小販を収容する場として改めてその役割が大きくなった。生鮮食料品の市場だけでなく、様々な小販の収容さらには公共施設として多目的化し、街市は大規模になっていくが、これと並行して小販のクリアランスが進み、1970年代には固定式小販以外のライセンスの新規発行が停止され、小販は公示された小販許可地域によって管理された。このように小販の管理は場所への固定化が中心に行われ、1980年代以降はライセンスを買い取ることで、行商小販や料理屋台の路上からの完全な排除が進められた。

 4章では政策の影響で市場空間それ自体がどのように変化したかを明らかにした。街市は、柱と屋根だけの簡易的な街市から公設の小売市場かつ建物として確立した低層街市、さらには仮設の臨時街市を経て、市場機能に加えCooked Food Centerや図書館、行政機能といった公共施設等が複合化する高層複合街市へと変化しているが、古くからの居住地区ではこの更新があまり進んでいない。一方、当初坐売りから露店まで様々であった小販は規格化された寸法の鉄製の露店か、あるいは黄色の枠で区画された特定の場所での商いへとその形態が収斂していった。その結果、小販は衛生問題が起こりにくいdry goods(雑貨、衣類等)を中心とするストリートマーケットだけを路上に残して、wet goods(生鮮食料品)を優先して街市に収容され、戦後約50年において街市の店舗数が増加し、その分小販数が減少することで両者はほぼ同数となったが、古くからの高密度な居住地区では多様な小販の集中という状況はあまり変わっていない。これに加えて近年、不法小販は地下鉄の出入口やバスターミナル、あるいはペデストリアンブリッジといった場所で見受けられるようになっており、必ずしも減少しているとはいえない。これは合法な小販は場所に固定されてしまうため、本来の小販の特徴である機動性を発揮するためには、不法小販になるしかないためである。

 5章ではケーススタディとして九龍の油麻地地区を取りあげ、市場空間の構成や機能を考察した。油麻地の市場空間は二つのストリートマーケット、Reclamation St.(生鮮食料品中心)とTemple St.(男性衣類中心のナイトマーケット)を軸として街市と商店が加わり、その商品構成を相互に補完しながら、食料品から衣類や雑貨といった日用品まで衣食のすべてを取り扱う市場空間を形成している。朝から夕方までのReclamation St.と夕方から深夜にかけてのTemple St.によって、一日中市場が開いており、Temple St.が観光化する以前は衣食に加えて外食や娯楽をも提供する、すなわち住以外のあらゆるサービス機能を市場空間が有していた。

 6章では、衣食住の「衣食」の役割を果たす市場空間と「住」である居住空間との間に、どのような関係性があるのかを論じた。油麻地地区においてストリートマーケットが存在し続けている背景として、地区の空間構成や建物構成が挙げられた。地区は幹線道路や高架道路によって閉じた構成となり、路地だけでなく道路自体が多くの小販を保持するオープンスペースとなっている。建物では水まわり+ワンルームの住宅プランをCubicleと呼ばれる数戸の部屋に間仕切り、複数世帯が共有する住まい方によって通常ではあり得ない高い人口密度を示す居住形態をうみ、インフィルの多様性から様々な世帯構成を受けとめ、それゆえ所得の低いブルカラー層が多数を占めながらも多様な居住者構成を可能にしている。その結果、自ずと屋外での過ごす時間が多くなり、「衣食」を支える市場空間と「住」の空間構成との密接な関係が明らかになり、街区それ自体が住居と呼べるような環境が形成されていた。

 7章では再開発による都市構造の変化がどのような影響を今後、市場空間にあたえるか油麻地地区を用いて考察した。近年、香港新空港・港湾開発プロジェクトが進められ、それを受けて作成されたメトロプランでは既存市街地の再開発の指針が示されている。埋立による新たな土地では、インフラストラクチュアから建物に至る一体的な都市開発が計画されており、既存の古い居住街区の空間構成は全く異なるスケールでの単一的な開発によって消滅を余儀なくされる。油麻地地区でも空港の移転計画に伴うインフラを中心とする都市開発のための埋立によって、その海岸線は1km以上西に移動し、埋立地での新規開発に既存街区は飲み込まれていく。報告書段階ではあるが、旧空港の高さ規制が解除されることもそれに拍車をかける。これによって6章でまとめた居住者及び居住形態が変容する可能性が高く、市場空間自体、特に小販の現状維持が困難になるであろうと予想された。

 8章では本研究の結論として約150年以上に及ぶ市場空間に関する重要な知見を変容背景の歴史、市場空間自体の変化と成立要因、市場空間の機能の三点からまとめるとともに、市場空間の評価や今後のあり方に対する提案を行った。

 高層複合街市が計画立案され、建設されるまでに要した20年以上の間、人々の生活を支えてきた重要な装置であり、かつ最も簡単に始められる職業であった小販の役割は高く評価されるべきであり、油麻地においてライフスタイルとして抽出された空間構成は一つの高密度な都市居住モデルである。その一方で、市場空間は居住形態と無関係ではなく、香港の都市の歴史において油麻地のようなCubicleを住居単位とする高密度な居住形態から大規模な高層住宅団地への変化の過程は、小販によるストリートマーケットと低層街市という構成から高層複合街市へと市場空間の主流が代わっていったことと軌を一にしている。小販はかつて都市空間に無秩序をもたらす要因であったため、街市に収容されるか特定の場所に固定化され都市空間に一定の秩序をもたらしたが、今後は仮設性や機動性という小販本来の機能を再度与え、新たな都市構造の中で地区の空間構成をより豊かにする要素として都市計画上での配慮が必要である。そうすれば小販は商店や街市とは異なる役割を果たす重要な都市機能として位置づけられ、不法な小販は減少すると考えられる。