福島 富士子
生活関連施設整備からみた戦前期東京郊外の私鉄による沿線住宅地開発の研究 : 東京横浜電鉄を例として
内容要旨
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本論文は、東京郊外に展開された私鉄による住宅地開発が、その初期の段階において、郊外の発展にどのように影響を与えてきたか、都市計画の観点から評価を試みるものである。従来の郊外住宅地研究ではあまり検討されていない住環境整備の側面より、東京郊外全域、沿線地域、特定の開発と、3段階に分けて沿線開発の状況と生活関連施設整備状況の分析を行なった。生活関連施設とは道路、上下水道等の都市基盤設備のほか塵芥処理等行政的サーヴィスを含むものである。
第1部: 大正〜昭和初期の東京市郊外の実態と私鉄沿線住宅地
1章は当時の都市問題、2章は郊外の状況をまとめたものである。この時期の東京市郊外は、地理的特性にしたがった郊外住宅地の発生と定着及び工場の進出に鉄道敷設が合致し、都市構造に大きな変化がみられる。市の近接町から外周部にかけては、人口密度も低く開発の余地が十分にあった。しかし町村財政が貧弱で、生活関連施設整備が追い付かず、市部や隣接町との差異が重要問題となっていることを確認した。
3章では、行政側の見解や対策について検討した。田園都市=計画的郊外住宅地が郊外整備を推進するものとして法制化が試みられ、都市計画法に「一団地の住宅経営」が規定された。しかし、経営手法を示すはずの住宅会社法案が挫折し、「一団地の住宅経営」は単に用語のみで、実際の内容や設計方針は規定されていない。このため、具体性に欠け、実現が遅れた。実施例をみると田園都市概念は消失し、小規模住宅地経営となっている。行政的に失敗であった計画的住宅地開発を手懸けたのは、同潤会など公益事業及び土地会社、私鉄など私企業である。しかし、こうした開発は少ない。郊外町村では、生活関連施設整備の為に強力な統制力を必要とし、東京市併合の要求が強まる。その実現は自治の後退と見られるが、幾つかの面で市内との格差の縮小に成功している。
4章では郊外での生活関連施設の整備状況を9項目にわたり検討した。警察や消防、郵便など国家事業に属する施設は、実情に則し比較的早く対応がなされている。しかし、町村主体の事業は、財政難から整備できないところが多く、また、民間会社の事業を統制する力が不足していた。隣接町など富裕な町村では、上下水道や学校など率先して施設整備を実施しているが、このため周辺部との差異が開いている。
5章は鉄道を中心とする分析である。大正期に、次々と開業された郊外私鉄が、今日の体制の基礎となっていが、鉄道事業の初期段階において、私鉄の認可方針は主に実現可能性と他社との競合の度合であった。東京全域についての総合的方針は何も示されていない。鉄道敷設は企業と沿線有力者の二者の利益の一致によって実現した。
私鉄は「一地方の交通」という位置づけから、兼業展開が必至であった。その一つである沿線住宅地開発は、初期においては、田園都市論の影響を受け大規模開発が多く見られた。しかし、往復1時間半という通勤時間の常識をこえた所は、頻発する不況の影響を受け、販売不振に陥っている。昭和10年頃より戦時需要により工場の郊外設立が相次ぎ、住宅需要が増した。この時期には、殆どの私鉄が不動産経営を営むが、都市化の進行による地価上昇で、大規模開発はみられず、沿線の小規模分譲や貸地が多い。
6章では、結論として鉄道の沿線住宅地開発の理由について考察した。ここでは通勤交通の発生、私鉄の経営特性、開発の資本力、鉄道需要の開拓などを挙げた。これにより、戦前の郊外で計画的住宅地開発を実施できたのは、交通機関、電燈電力供給という2つの生活関連施設の整備が可能で、資本力もある私鉄であったことを示した。初期に開発された住宅地が高い水準を持っていたことの影響も重要である。
第2部: 田園都市(株)・目蒲電鉄・東横電鉄による沿線住宅地開発
1章では、目蒲電鉄沿線は市街化が著しいのに対し、東横電鉄沿線である神奈川県橘樹郡はかなり生活関連施設整備の遅れた地域であった事を示した。
2章は目蒲・東横電鉄の成立から合併までの過程を、電鉄を中心に追った。詳細は東急の社史に詳しく記されているため、各社の路線、兼業、問題点を中心にまとめ、各鉄道が、それぞれ異なった性格を有する事を明らかにした。
特に、詳細の知られていなかった田園都市(株)の鉄道部門である荏原電鉄については、新事実及び路線を明らかにした。この計画路線から、当初は多摩川沿いの開発を想定していたのではないかと推測される。
3章では沿線開発構想について検討した。田園都市(株)による田園都市のイメージは東横電鉄に継承されているが、形成された住宅地の水準により田園都市の名称を放棄することにより、イメージが守備されたという結論に達した。また、沿線開発の構想は、東横電鉄の前身である武蔵電鉄が、大正元年に既に明示していたことを資料をもとに明らかにした。これは経営者五島慶太の鉄道経営観にも影響していると考えられる。
4章で鉄道会社と沿線住宅地の関係を検討した。2章で明らかにした鉄道の差異を、収益の分析から捉えた。目蒲電鉄では、交通業主体であるが、東横電鉄は鉄道、土地経営とも営業成績が悪く、兼業に走った様子が明らかとなった。定款からも、これが裏付けられている。
5章は、沿線開発と地域の関係を、様々な側面から、検証したものである。土地の取りまとめに沿線地主有力者の働きが大きな役割を果たしたこと、日吉台において大学誘致をきっかけに住宅地が商店地区となった事、住宅地計画が自治体の発展に寄与した中原町の3例を挙げた。
6章では、都市計画設計の観点から、分譲パンフレットにより沿線住宅地の個々のプラン20例について比較検討した。田園都市(株)が関わった大規模開発、東横電鉄沿線に展開された中途半端な分譲地、目蒲電鉄沿線の散在した開発、昭和10年頃からの貸地経営を含む小規模不動産経営の4種がみられた。計画性の面では、東横電鉄沿線で道路の段階構成と複数道路の交叉による中心性の明示が見受けられるが、全体的にグリッドパターンが採用され、大きな特徴はない。
7章で、沿線住宅地開発の鍵は、市内からの距離と施設整備にあったことを結論とした。東横電鉄の沿線住宅地はこの条件に合致しなかったため、経営不振となり、多角経営のきっかけになった。しかし、これは逆に沿線対策として私鉄のサーヴィス向上に結び付いている。
第3部: 田園調布の開発
1章は開発以前の周辺状況を示したものである。事業地として、調布村、玉川村が選定されたが、第1部に見たように、両村とも外周部に属し、人口、財政とも少ない地域であった。各種の開発計画があったが、地元の反対で退けられた。
2章では、田園調布の平面計画の変化を、分譲パンフレットを資料として分析したものである。その結果、グリッドパターンから放射環状へ基本パターンの変更があったこと、地形の考慮がなされたこと、放射環状パターンが都市計画道路の設置により変化があったこと、敷地面積の減少あるいは分割、施設設置による土地の割譲があったこと、土地の用途変更がみられたこと等の変化が観察された。こうした変更によって、住宅地の一体感は喪失している。
3章は、生活関連施設の整備状況を、町内会誌を主な資料としてまとめた。分譲初期の頃は、施設整備が十分でなく、宣伝とは裏腹に、生活は困難を究めたことが明らかとなった。分譲後の整備には、電鉄の協力、市域拡張の効果も大きかった。
4章では、住宅地内の生活環境整備にあたって、町内自治組織として主体的に行動していた田園調布会の役割について検討した。基本的には一般的な町内会と変わらないが、法人化により組織が整備され、田園都市(株)より信託された財産を背景に、施設管理や改修にあたっている。また、土地利用の違反に対し、田園都市(株)より示された建築規定に沿い、土地の用途を自ら律する体制を作った。
しかし、市域拡張により、田園調布は行政的に分離され、その不都合から田園調布会も二つに分かれた。この経過をみると、田園調布及び洗足住宅地が、地元で浮き上がった存在ではなかったかと、推測される。
5章で、田園都市(株)の理想が実現されたのかを、以上の経過を総合して考察した。最初に示された理想とは、かなり異なった状況とはなっているが、今日の環境をその結果であるとみれば、理想は半ば達成されたと結論される。
戦前の東京郊外は、まだ都市的な生活には遠い状態にあったが、私鉄の住宅地開発は、自ら生活関連施設を設置することにより、郊外居住の可能性を開いた。住宅問題に対して、郊外住宅地と交通機関の敷設という回答を行政側で示しながら挫折しているのに対し、私鉄が実際に高水準の住宅地開発を実行した事で、郊外開発の手本となったと考えられる。具体例を示す事で郊外住宅地開発を誘発し、その水準を引き上げる効果があった。さらに、私鉄は鉄道敷設、電力供給という形で、沿線地域の生活水準向上に直接役立っている。
当時私鉄の敷設を統制する方針はなく、沿線地主の意向や鉄道企業間の力関係によって規定されているが、そのため、経営困難が予測されるに関わらず需要の少ない所にまで鉄道が開設された。東横電鉄では沿線住宅地は経営補助手段として重要視されたが、同時開発したため不況の影響を大きく受け不振であった。計画的開発は休止してしまい、小規模な分譲経営に転換している。住宅地計画を段階的に実施すべきであり、行政側から市街化に対し何等かの都市計画指針を示す必要があったと考えられる。