ニューヨーク市における都市保全に関する研究 : ヒストリック・ディストリクトを中心として
窪田 亜矢

内容要旨
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 本論文はニューヨーク市における都市保全の全貌を明らかにし、都市保全に関する課題と展望を考察することを目的とする。

 「2.地区の保全:Historic District制度」では、米国の主要な面的保全手法であるHDについて、論理的根拠が確立されてきた過程を法的論点を通して分析する。

 HDは、1930年代から1960年代半ばまでの第一世代において歴史的環境を文化財として扱っていたが、第二世代では柔軟な動態的環境保全手法へと展開し、全米に普及してきた。

 そして、ゾーニング、歴史的環境保全、美観規制、デザイン・レビューの四つの分野での法的根拠が争われるなかで、論理的根拠を確立してきた。

 歴史的環境保全を目的とするゾーニングとしての合憲性が確立され、次第に「地域の性格」や総体としての環境保全へとゾーン分けの根拠が拡張される。さらには美観規制から発展的に創造的デザイン・レビューが普及してくる。

 以上をふまえて、HDにおける現在の法的論点と課題として、維持怠慢による取り壊し、合理的な基準の確立、表現の自由、他の法律との調整が挙げられる。

 「3.ニューヨーク市の歴史的環境保全」では、これまで我が国ではほとんど着目されることのなかった、ニューヨーク市で実践されている歴史的環境保全を明らかにした。

 まず、ニューヨーク市を事例とする理由として、市が常に先取の精神で都市計画や歴史的環境保全に取り組んできたこと、住民運動には定評があること、アメリカ一般の都市としては語れないものの大都市として経済的圧力や多様な価値観の調整という普遍的な課題に取り組んできたことが挙げられる。

 ペン・セントラル駅の解体を契機として全市民レベルでの歴史的建築物保存運動が盛り上がり、1965年、歴史的環境保全条例(Landmarks Law、以下保全条例)制定へなる。面的保全については、大規模開発計画を契機とする特定の地区住民による運動によって、保全条例においてHDが設立された。

 保全条例を中心的に担う機関として、市長の任命と市議会の同意を受けた、専門家や地区住民を代表する者十三名による歴史的環境保全委員会(Landmarks Preservation Commission、以下LPC)が設けられた。LPCによる指定には所有者の同意は必要とされず、その後の改築等において、LPCの許可が必要になる。最終決定権限は市議会にあるがLPCの判断は基本的に尊重される。

 このように法的規制の強い保全は、指定・規制の段階において徹底的な調査に基づいた住民や建築家との議論を重視する公開の個別デザイン審査が支えている。

 NPOは、地元住民が中心となり地区のあらゆることを対象とするタイプと、全市を対象としながらも専門家が中心となって特定のテーマに即して活動するタイプの二つに分類できる。自らの得意分野で活躍しながら市民や自治体、州、連邦レベルの他主体と連携している。

 保全が次第に重要な社会的運動であると認識され、1978年ペン・セントラル判決では保全条例の合憲性が確立される。

 こうして保全が日常生活に浸透してきたなかで、職員を増加する等の措置を採らないと専門的判断を下す役割を担ったLPCの位置づけが危うくなることが第一の課題である。

 また、個別デザイン審査の手法は、生活環境としての変化の受容と歴史的文化財の真正さの保持を衝突を両立させうるとして、高く評価できよう。公開による個別デザイン審査があったからこそLPCと建築家や住民は議論を通じて信頼関係を築き、お互いが保全に対する感覚を磨いてきたのである。しかし、LPCに対する他局の強力な協力体制は今後の課題である。

 第三の課題としては、二つの側面における多価値の調整が挙げられる。

 ひとつは、これまでLPCが保全対象としてこなかった近過去や非白人等に関連して、都市の歴史に対する認識を今一度確立する必要性がある。

 もうひとつは、歴史的環境保全以外の価値で、経済や宗教についてはハードシップ条項や宗教施設の特別扱いなどの対応をはかってきた。障害者対応等では「適切なデザイン」による新たな歴史的環境のあり方を模索するべきだ。

 「4.ニューヨーク市のHD」では、ニューヨーク市におけるHDの経緯と現状を明らかにした。

 HDの目的は地区の「特別な性格」を守ることにある。そのため市内のHDは様々であるが、文化財保存型、動態的環境保全型、併存型の三つに分類できる。

 初動期にはHDが広く社会に認知されるようになったが、実際のデザイン審査の局面では、コンテンポラリー・デザインの取り入れ方やどこまでデザインの質を求めるのか、など問題もあった。

 ペン・セントラル判決を経て強化期では、デザイン審査も厳しくなり、同時に、日常的な生活環境も歴史的環境保全の対象とすべきであるという意見が、1979年に裁判所から述べられている。

 その後、政治的影響、経済ブーム到来、HDの柔軟な活用の結果による混迷により、1980年代初等より退行期となる。この間も保全派住民の熱心な活動は続けられていた。

 1990年以降、浸透期を迎える。文化財保存型も動態的環境保全型も着実な指定が続いているが、HDの分布には政治的影響や人種による偏りがある。

 HDでのデザイン審査におけるLPCの判断の根拠となる、地区の歴史や「特別な性格」の捉え方は、固定的なものではなく、変化への対応において、常に現在の地区の有り様が考慮される。

 以上をふまえると、都市の多様性という点からは、HDによって市内に固有で魅力的な地区が数多く併存している。HDは時間的な重層性を都市にもたらすばかりでなく、地区の魅力を創造的に高め強めていく。多様なHDが保全されてきた結果、市民の感性を育み、それがまた、新たなHD指定へ、更なる多様性へと連鎖していく。

 コミュニティの安定化という点からは、HDの対象外である公共空間でも相乗効果が起こり、地区のイメージが共有化され、同時に環境教育の場ともなる。住民は正式な意思表明の場が与えられることになり積極的で前向きな関与が継続される。

 HDの柔軟な運用を評価する一方で、今後もHDの増加が見込まれるなかで、何らかのヴィジョンも必要になるのではないかという問題が提起されよう。

 「5.HD事例研究〜グリニッジ・ヴィレッジHD〜」ではGVHDを事例として採り上げた。 GVHDは1969年と指定が古く規模も大きく多様で、併存型で、市のHDで起きたことを網羅的に代弁することが期待できる。先進的住民保全運動のあり方も注目される。GVHDでは、総体としての価値をどのように守り育んでいるか、という普遍的なまちづくりが実践されてきた。

 GVHDのデザイン審査から、具体的な事例を通して、以下の点が考察される。建築家は、「特別な性格」の解釈の仕方を発展させ、歴史的環境に調和する優れた「適切なデザイン」を展開してきた。住民は、GVHDを生活環境ととらえる独自の視点によって、LPCの考える保全の対象を拡張させてきた。LPCは、建築家や住民の意見を取り入れつつ調整をはかり、同時に専門家として歴史的建築的価値付けや都市計画との調整を行ってきた。

 業務改善地区のような他の目的による歴史的環境活用が重ねられる場合、HDであるために具体的な開発行為の段階では適切なデザインが導かれる。

 このように多主体がそれぞれの分野において保全を実践した結果、まず、指定以後の取り壊しは少なく、物理的な環境保存は成功したと評価できる。

 次にLPCの基本方針に基づいた評価は以下の通りである。1)住民との良好な協力関係に成功し、2)ディティールへの配慮も向上した。3)住宅のみを重要とする考えは住民の努力によって店舗や倉庫も含まれるにようになった。4)周辺環境との調和は個別デザイン審査を通じた努力が続けられ、5)適切な変化の受容が模索されてきた。

 GVHDの「特別な性格」を三点に要約した。まず、「漸進的環境更新のあり方」が1961年ゾーニング条例改正によって否定された「環境の多様性」を育んできた。その結果、暮らしに根付いた「総体としての価値」が保全されてきた。

 GVHDは、多様性が優れた生活環境であることを証明し、文化財保存でもなく近代都市計画でもない、動態的保全の重要性を先駆的に認識させる役割を果たしてきたのである。

 第三章から第五章までは保全条例に基づいた歴史的環境保全を扱ってきたが、第六章では「6.ゾーニング条例による面的保全」を対象とする。

 ゾーニング条例の中での保全は、開発との駆け引きにおいて位置づけられるため都市計画がネゴシエーションであるという認識をもたらした。その結果、民主的プロセスの確立には役立ったが、保全手法であるにも関わらず特別な手続きを要することが多く、充分な活用はされていない。

 また、保全は既存の環境に応じた固有の規制が必要となるため、地区毎あるいはきめ細かいカテゴリー分類が必要となり、ゾーニング条例が複雑で膨大になってしまった。

 また、都市計画委員会(City Planning Commission、以下CPC)は主に色分けや数値による規制誘導手段をとっておりデザイン審査には向かない。

 これらのゾーニング条例による保全の限界をふまえると、ソフト面にも関心を寄せるCPCとハードの建築物デザインを主対象とするLPCの補完関係を深めていく必要がある。CPCが開発と保全に関するヴィジョンを確立し、LPCが何をどのように保全するのか、といった具体的な保全を行うという役割分担が提案されよう。