ハノイ旧市街地「36通り地区」の保存・改善計画に関する一考察
--オープンスペースの役割を通して--

46127 土田愛

A Study on Conservation and Improvement of the "36 Old Streets" Quarter in Hanoi
-in view of the Role of Open Spaces-

This study was done with two purposes; one is to introduce the historical backgroundd and the frame of the present conservation planning of the "36 Old Streets" Quarter in Hanoi, and the other is to give some suggestions on how to conserve while improve its poor living conditions, by examining open spaces in relation to the activities of the communities.
By reviewing the proposals shown by some institutes in Vietnam, the introduction of open spaces inside the blocks turns out to be quite important for the improvement. Open soaces have a role in developping communities, which should be conserved. In this study open spaces in the blocks, especially those with worshiping places and alleys, are thus regarded as a key to implement the conservation plan.
Taken together, it is suggested that the plan must be based on research to clarify especially the actual use of the open spaces in the community system. Otherwise the plan will be unrealistic and open spaces will not be maintained as valuable public places.

第0章 研究の概要
 ハノイは、1000年もの歴史を持つ、東南アジア有数の歴史都市である。長く続いた戦争で経済発展が遅れたため、歴史的建造物や町並みが現在も多く残っている。しかし、近年のドイモイ(刷新)による市場開放政策により、外国から投資先として注目を集め、急激な開発にさらされている。一方で、経済発展のために裕福になった住民による、老朽化した狭い建物の建て替えや、観光客向けのホテルなどの建設によっても、都市は変貌を余儀なくされている。歴史都市ハノイを開発しつつ保全するためには、今働きかけなければその貴重な価値はじきに失われると思われる。
 中でも特に、フランス植民地時代以前から発展していた商業中心、町屋密集地区である旧市街(通称「36通り地区」)は、世界遺産にも推薦されるなど保存すべき対象として国内外から最も注目されていると同時に、平均900人/ha近いという超過密状態で劣悪な居住環境という問題を抱えている。

研究の目的
1.建築・都市計画の分野で日本ではほとんど研究されていない都市ハノイについて、形成過程及び都市保存計画の概略を明らかにすること
2.旧市街「36通り地区」の保存・居住環境改善計画に関して、オープンスペースの役割という視点から、保存と改善雄両立を実現するための手がかりを示すこと

第1章 ハノイ及び36通り地区の形成史

ハノイの都市形成過程
 ハノイは紅河デルタの低湿地に立地しており、埋め立てによって市域を拡大してきた。紀元前から1000年以上中国の支配下にあったが、1010年に李朝が新都を建設して以来常にベトナムの中心となった。都市の発展過程は大きく4段階に分けることができ、段階ごとに特徴的な市街地を形成している(図1)。第1段階(1010〜13世紀頃)は、中国式の城郭都市にならって王城が建設され、周囲は寺院や小規模集落から成っていた。第2段階(13世紀〜19世紀末)には、城郭の東側に商業地区が形成され、紅河を中心に交易拠点となった。第3段階(19世紀末〜20世紀半ば)はフランス植民地時代で、城壁は壊され、グリッド状大街区のヴィラ地区の整備、鉄道や橋の建設など、今日の都市骨格となる開発が行われた。第4段階(20世紀半ば〜)は、工業化による人口集中に対応して、集合住宅を郊外に大量に建設し、都市はさらに主に西南へと拡大、スプロールしていった。

36通り地区の成り立ち
 36通り地区は13〜14世紀頃から発展してきた商業地区で、出身村落ごとに職能別ギルドが特定の商区をもって立地していた。15〜18世紀頃、商区は36あったことが「36通り」の名前の由来である。商区は現在も行政区界「フォン」として残り、またほとんどの通り名はそれぞれの商工業の名に由来しており、かつての名残をとどめている。フォンは同郷、同業の歴史的なコミュニティの単位であり区界は非常に複雑であるが、今日では住民の入れ替わりや過密状態で、かつてほど重要性は持っていない。
 36通りちくには、紅河の支流で城への主要路である蘇歴江が流れ、小さな湖が点在しており、道路は湖を縫うように走っていた。フランスが埋め立てた結果、道路が通って街区が分割された場合や、そのまま建てづまった場合もある(図2)。

・一見均質にも見える36通り地区であるが、街区や通りによって歴史的背景が異なっている。

第2章 ハノイ及び36通り地区の現状と課題

人口及び人口変化
 ハノイの人口は工業化がすすんだ1960年代、70年代に急増した(表1)が、1980年代以降は郊外部の増加が特徴である。 特にハノイ市の都市部4区の1988年から19992年の年平均人口増加率をみると(表2)、36通り地区を含む都心のホアンキエム区ではわずかであるが減少している。
 36通り地区は最も人口密度が高く、面積85.46ha、人口75759人で平均人口密度は886.5p/haである(*1)。局所的には1400p/haを超えている。

・36通り地区の特徴は非常に高い人口密度であるが、高密で安定している

36通り地区の課題
 ハノイ全体の課題としてインフラ不足、建物の老朽化と居住環境悪という問題を抱えているが、特に36通り地区では劣悪である。36通り地区に特徴的な鰻の寝床状の建物は間口が狭く(3m以下のことも)奥行きは極端に長い(50m以上のことも)。建物の済奥部はトイレとなり、下水の未整備から街区の奥ほど衛生状態は悪い。

・36通り地区の課題は、インフラ不足や建物の老朽化による劣悪な居住環境であり、住民による建て替えを引き起こす要因となっている。

第3章 歴史地区の保存計画

マスタープランと旧市街保存規制
 1992年、ハノイ建設1000年に向けて認可された「ハノイマスタープラン2010」に、初めて歴史地区の保存が取り入れられた。36通り地区を「保存すべき地区」とし、同時に新しい商業中心を西湖周辺に整備するとしている。これを受け、1993年ハノイ市により「ハノイ旧市街における建設管理と保存に関する規制」、1995年建設省により「旧市街の発展と保存に関する計画批准書」が公布された。旧市街における建設や修復活動に許可が必要であること、建物は3階建て以下とすることなどの規制がかけられたが、取締が追いつかず、実際はほとんど機能していない。

36通り地区の保存・改善計画
 36通り地区については、全体の保存計画を建設省都市農村計画研究所(NIURP)が作成、さらに個々の街区に対して大学などが分担して計画案を作成するという方式をとっている。
 各機関の案を比較すると、道路のネットワーク、宗教施設、ファサードを保存するという共通認識がある。一方、居住環境改善のためには、建てづまった街区にどのようにオープンスペースを空けるかがポイントとなる。
・街区内部にホテルや商業施設と広場をつくる
・街区を分断する道路を直線的に通す
・宗教施設の境内を復活させてひろばを空ける
・ロット方向に何本かの路地を、中心のひろばに向けて通してつなぐ
・既存の路地を拡幅して広場をあける
・建物の背割線沿いに路地を通して、路地のネットワークをつくる
などの案が出されている。また、道路に面した外側の建物については高さを現状維持するということで共通認識があるが、街区の内側は、4〜5階にして、人口を街区の中で収容するという意見と、内側も低層に保ち、収容仕切れない人口は他の地区へ移転させるという意見に分かれる。

保存・改善計画案の問題点
・居住者の生活実態や権利関係をほとんど調査せずに、大きなオープンスペースを空けている
・オープンスペースはインフラ整備が主要目的で、具体的な空間の性格が考慮されていない
・商業的魅力のある36通り地区からの移転希望者はあまり期待できない。移転させる場合は新たな商業拠点を整備する必要があり、36通り地区だけの問題にとどまらない
・保存の対象として物理的な要素しか挙げられておらず、コミュニティ保存といったソフト面の考慮はなされていない

第4章 36通り地区のオープンスペース

オープンスペースに注目した理由
・きょじゅかんきょうかいぜんのために、保存・改善計画でオープンスペースを取り入れることが不可欠である
・オープンスペースは、既存の保存、改善計画では考慮されていない、コミュニティを形成するという保存すべき役割を持っている
     →保存と改善の両立をはかる鍵

 ここでは、計画案でも重要視されている宗教施設と路地に注目した。36通り地区では、街区内の私的空間でないオープンスペースは、ほぼ路地と宗教施設に伴うオープンスペースだけである。

・既存の保存・改善計画に十分認識されていない、オープンスペースがコミュニティ形成という面で果たしている役割を把握することによりオープンスペースを空ける目的を再確認する

第5章 36通り地区における宗教施設に伴うオープンスペースの役割

宗教及び宗教施設の概要
 ベトナム人の約9割は仏教徒であり、宗教が都市や住民の生活に与える影響は大きい。宗教施設は本来、毎月1日と15日のお参りや節日ごとの行事、儀式やお祭りが行われる場で、村の集会所としての機能も持っており、多目的でコミュニティの場である。特に村落社会の構造をそのまま持ち込んだ36通り地区には集中して分布している(図3)。宗教建築の伝統様式は[内は「工」外は「国」]と呼ばれ、本殿を囲むように回廊があり、前庭と門を持つのが典型である(図4)。36通り地区では、戦災や天災で家を失ったり農村から追われた人々による住居化がはげしく(*2)、回廊はほとんど残っていず、祭壇も消滅しているものも多い。特に1873年以降建設された新しい道路沿いの宗教施設は16箇所中10箇所が既に消滅している(図3)。一般的に古いものほど支える住民の基盤が確立されていると考えられる。一方で、消滅したものも含め、ほとんどの宗教施設は文化財指定されている。

保存・改善計画案での、宗教施設に対する考え方
・宗教建築を文化財として保存、修復するとしており、宗教活動によるコミュニティは考慮されていない(関係なく文化財指定されている)
・宗教施設に伴うオープンスペースは宗教活動のためだけと捉えられ、近隣住民のために開かれた施設にするという考えはない
・宗教施設を本来の姿に戻すため、敷地内の住民は強制的に退かしてよいという認識があり、住民どうしのコミュニティも考慮されていない

宗教施設に伴うオープンスペースの役割
 36通り地区のすべての宗教施設53箇所について、オープンスペース(主に前庭)の有無と利用、住居化の状態を調査(1994年11月)及びリスト化し、それに基づいてタイプ分けをした(図5)。さらに、type0〜type3から計6箇所のサンプルを選んで、オープンスペースの実測及び、住職や宗教施設内の住民に対し、おーぷんすぺーすの利用などに関する聞き取り調査を行った(1995年5月)。その結果は次頁に示す(表3、図6)。

調査から得た結論
・<宗教空間>としてはオープンスペースの利用はなく、本殿さえ維持されればオープンスペースに関わらず、宗教によるコミュニティ形成の場として機能している。
・<近隣空間>としては、オープンスペースがない場合、宗教施設が施錠されて閉鎖的になることが多く、<近隣空間>の役割を持たない。オープンスペースがある場合、<近隣空間>として機能するための条件は、門や前庭が<生活空間>分離していることである。
・<生活空間>としては、オープンスペースがない場合は、本殿は住居化しにくい反面一旦住居化すると消滅してしまうことが多い。オープンスペースがある場合<宗教空間>と空間的に分離されていれば共存できる可能性がある。宗教施設ごとに完結した住民のコミュニティは一般的に存在しないが、多くの住民は長く居住していて生活基盤がそこにあり、都市に組み込まれている。

保存・改善計画に考慮すべき事の提案
・<宗教空間>のために宗教施設を今すぐ境内を復活させる必然性があるとは言えない。但し、本殿が住宅に侵されている場合は、最低限本殿を<宗教空間>として確保するべきである。宗教施設を支えるコミュニティが既に存在しなければ、住宅として認めてしまってもよい。
・オープンスペースを空ける目的として<近隣空間>としての評価を考慮に入れるべきである。節日以外も門や前庭を開放するなど、36通り地区に貴重なオープンスペースとして近隣に開かれた場とすべきである。
・<生活空間>としては、宗教施設内の住民を画一的に退かすべきではない。<宗教空間>や<近隣空間>を侵していず、その場所に長く済んでいる場合は共存できるとして当面退かす必要はない。つまり、「宗教施設の復活」という大儀の基に、安易に住民に対して暴力的な措置をとるべきではない。

第6章 36通り地区における路地の役割

36通り地区の路地
 ベトナム語で道、道路の意味を表す単語は4種類ある。ここでいう「路地」とは、NGO以下のランクの道路を指す。基本的に建物の外部で、複数の住宅にアクセスする通りを指し、いわゆる屋内の「通り庭」は含まない。

DUONG 最も大きい道路。幹線道路級の道路や新しい道路に主に使われる。
PHO  道路を表す最も一般的な単語。「36通り地区」の主な通りはほとんどPHO。
NGO   いわゆる「路地」を表す単語。PHOから枝分かれする小道。
HEM  NGOからさらに枝分かれする道。

路地の歴史的背景と分布
 地図から判断できる路地と、通りから入口が分かる路地をチェックし、その位置と形態、利用の仕方を見て分かる範囲で調べた(1995年11月)。
 36通り地区における路地の分布を見ると、地区の西より一帯は、後から開発され比較的街区が小さいため、路地らしい路地は存在しない。かつて街区の奥に続く道として多く存在したNGOは人口増と共に住宅化してしまった。NGOをはじめ現在も残っているものは、宗教施設があったため通り道として残った場合が多いと考えられる。

路地の役割
 路地の形成要因と変化の状況から、ソフト面での役割を把握するために、4つの路地について、実測及び住民に対するインタビュー調査を行った(1995年5月)。その結果を以下にまとめた。
・路地は36通り地区に貴重な半公共的空間であり、子供の遊び場など住民のコミュニティ形成の空間となっている路地もある。
・住民どうし軋轢の多い路地では、床面積増加のため建て替え地に路地にせりだして占有化が起こりやすく、悪循環を起こしている。
・背割り線沿いの路地は、インフラのためだけで住宅が表を向けていないと、路地は利用されなくなり維持されない。
つまり、保存。改善計画で考慮すべき事は、
・インフラのためだけでなく路地の利用を考慮しないと路地は維持されない。公共施設によって路地の公共性を高めることは有効である。

第7章 結論

 36通り地区の保存・改善計画で考慮すべき考え方を結論としてまとめた。
・36通り地区は一見均質のようにも見えるが、通り、街区ごとに独自の背景を抱えているので、保存の優先順位をつけるのではなく、それぞれの特徴を考慮した計画をすべきである。
・36通り地区の人口は高密で安定している。人口密度を下げることを前提にしないで、地区の活気を生み出す特色として、過剰な人口をむしろ積極的に評価することも必要といえる。
・保存・改善計画では、居住者に関する調査に基づき、できるだけ人口を移転させないこと、マスタープランの中で捉えることが重要である。
・変化の激しい地区で物理的な要素の保存は困難で、むしろコミュニティといったソフト面の保存も考慮すべきである。
・宗教施設は文化財としてだけでなく、宗教活動のコミュニティの場や近隣住民に開かれたオープンスペースとして評価すべきである。その点から言えば、当面敷地内の住民を退かさなくても支障はない場合もある。例に挙げたChua Vinh Truのように、<宗教空間>には本殿、<近隣空間>には門と前庭が確保され、<生活空間>は回廊部分であれば、共存できる可能性もある。
・路地を空ける場合は、利用のされ方を考慮しないと維持されない。路地に対して住宅が表を向けているべきであり、公共施設へのアクセスとすることが有効である。

36通り地区の保存・改善計画では、調査に基づいて計画することが重要である
・街区ごとのことなる背景
・空間の利用のされかたやコミュニティ形成
・36通り地区の魅力(過剰な人口が生む活気)
・ハノイ全体での位置づけと将来動向
必ずしも大きなオープンスペースを空けて人口を減らす大規模な計画は必要ない

注釈
*1 1994年のデータに基づいて、36通り地区の範囲をほぼカバーする8フォンで集計した。
*2 合法的な居住者だけでも700家族4000人いる。合法か不法かは、居住年数や納税の有無にもよるが、賄賂で決まるところが大きくもはや判断できない

主要参考文献
1)Hoang Huu Phe, Yukio Nishimura, The Historical Environment and Housing Conditions in the "36 Old Streets" Quarter of Hanoi, Division of HSD, AIT, 1990
2) Ministry of Construction, Development of Architecture and Town Planning Management, State Management Documents on Town Construction Planning, Construction Publisher, 1993
3) W.S. Logan, "Heritage Planning in Hanoi in the Context of the Master Plan", the International Seminar on Hanoi and Hue, 1994
4) ToThi Minh Thong( ViceDirector, NIURP), ""36 Old Streets" Quarter in Hanoi Challanges between the Preservation, Restoration and the Changing Development", Symposium on Preservation of Traditional and Modern Architecture in Hanoi, 1995
5) 大西和彦「宗教と祭礼」、桜井由躬雄編『もっと知りたいベトナム【第2版】』、弘文堂、1995、pp.219-236


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