課外・臨海副都心にこそ森

2004年4月19日 

 2004年4月14日(水)は、西村幸夫東大大学院教授(都市計画)の大学院「都市設計特論」の初日であったが、それは工学部4年を対象にした「都市保全計画」講義と表裏一体であり、たまたま西村教授がパネリストとして出席する臨海副都心(Tokyo Water Front City)の可能性を探る「お台場がいま、変わる!」シンポジウムの日に当たったので、出講義を受けるつもりで赴いた。教授は専門家の責務として、象牙の塔ではなく、学問の成果を職住学遊に生かし、それを授業に還元していく知的循環システムを重んじる学者だったので、私はこのシンポジウムを「都市保全計画」初授業の課外授業にも擬して、お台場へ聴講に走ったのである。

 パネルディスカッションにおける西村教授は、「職住学遊」のミックス都市の計画化を強調した。歴史的環境保全まちづくりの理論と実践を通して評価の高い学者が、一方で未来の歴史的環境化を視野に入れた臨海副都心の都市デザインを発信していることは、東大に開設した「都市保全計画」科目のバックグラウンドの広さをうかがわせた。

 このパネルディスカッションには、『東京都市論』1)を刊行した青山前東京都副知事も参加した。臨海副都心はバブル崩壊後、業務機能集積開発型からまちづくり推進型に転進し、真っ先に生活の質向上、自然(水とみどり)との共生がうたわれている。そうした中で、職住学遊の総合エリアをめざすことは、「総合快適性」としてのアメニティ(amenity)にとっても重要である。

 アメニティは、産業革命下の英国の劣悪な居住環境を改善するため、都市計画領域から起こった実践思想で、近代都市計画の旗印とされた。快適さ、快適性、快適環境、居心地のよさ、人柄の好もしさ、礼儀正しさ、らしさ等の訳があるが、複合概念である。単体的な快適性の訳語が定着する前に、総合快適性と訳されておれば、恣意的建築による都市風景や自然破壊はアメニティに有害ということで、相当に排除できた可能性がある。アメニティは都市計画や建築、環境分野だけでなく、文化、医療、色彩、教育分野にも広がっているが、それらをも超える思想である。

 しかし、歴史的にみて正統(本流)アメニティは都市計画領域であり、しかも東大工学部都市工学科都市計画講座の主任教授が、英国の都市計画とアメニティ研究で知られる西村幸夫教授であるところから、正統アメニティ研究の拠点であり、そこでの聴講は、アメニティの学習・研究にとってかけがえのない学府なのである。

 ところで、臨海都市である東京は、かつては水の都だった。臨海部は運河、水路が網の目のように疎通し、舟運また盛んであった。それが戦後になって、戦災復興事業の瓦礫等による埋立地と化し、水の都は忘れられてしまった。

 このことは東京のみならず、たとえばみちのくの仙台市においても、かつて水の都といわれた網の目の水路が埋め立てられ、杜の都の名しか継承されていない。杜ということは、とりもなおさず水あっての杜であり、自然インフラは水に帰すのである。その意味で最近になって仙台の水の都を見直し水路を取り戻そうという市民運動も起こり、旧水路探索ウオッチングが行われたりしている。

 そのことから東京の臨海副都心を照射してみると、水はあっても森が乏しい。広大な公共空地を計画的に温存するため、都はこれを売却せず、緑化スペースを主力に潤い空間として持続する方針という。しかし、緑化という語のニュアンスからすれば、それはおしなべて平面的植生化のことであり、森のような立体植生をイメージできない。現在の臨海副都心の鳥瞰映像、平面図情報および実際の徒歩観察による現認体験からは、セミ未来志向現代建築の集積によるコンクリート砂漠である。

 ヒューマンスケールによる愛着を深めるまちづくりの促進が緊要であるが、その効果を豊かにするためには、自然との共生に限っていえば、草と花と木立の平面緑化だけでなく、森の創出が切望される。森のポケットパークから始まって、明治神宮の森ならぬ臨海の森を複数創出することである。

 明治神宮の森は大正年間の大規模植樹によって生まれた。植生の意外に速い成長スピードは短期間で森林を形成する。お台場の森(仮称)その他可能な立地に造成される森等の創出と造景によるアメニティな臨海副都心での生涯職住学遊生活および観光の活力のある場を人々に提供してほしい。

 それとともに、道路建設の代わりに水路を張りめぐらし、ベネチアではないが舟運とボート、屋形船を含む小回りクルージング回遊エリア化を計画することが望まれる。「臨海地区観光まちづくり基本構想」(臨海地区観光まちづくり検討会2))にみえる運河ルネッサンスの提唱は参考になる。

(注)

1)かんき出版、2003.2。p177参照。

2)西村幸夫はこの座長を務め、「臨海地区観光まちづくり基本構想」の策定に当たった。観光といっても、観光の視点からトータルにまちづくりをとらえ直すというコンセプトである。


  東海道新幹線の沿線醜景『犬と鬼』を読んで

2004年4月26日 

 東大講義「都市保全計画」で西村幸夫教授が開口一番読み上げた。「味もそっけもない効率一点張りのゴミゴミした眺めは見るのもつらく、トンネルに入るとほっとしたほどだ」。その本は、米国人アレックス・カー著『犬と鬼─知られざる日本の肖像─』1)である。「ゴミゴミした眺め」は、広島から東京まで800キロの退屈な風景を指す著者の友人の言葉であり、この著書は、絶望的な風景破壊ニッポンへの勇気ある親日家の直言書である。

 それにしても奇抜な表題である。犬と鬼は韓非子の故事とある。皇帝が宮廷画家に「描きやすい物は何か、描きにくい物は何か。」と問うと、画家は「犬は描きにくく、鬼は描きやすい。」と答えた。犬のようなおとなしく控えめのものは正確にとらえることが難しく、大げさな鬼は誰でも描ける。つまり現代の基本的な問題のように、地味なものは解決が難しく、鬼のように派手なモニュメントに金を注ぐのは簡単、という教訓に著者は敷衍した2)私はカー氏に鼓舞され、痛感している東海道新幹線沿線風景への焦燥感をここに書いた。

 全国鉄道網の銀座路線は、東海道新幹線である。日本の表の代表風景がこれっ?と外国人は目を覆う。日本人は不感症になっていて、たじろがない。美(うま)し国の末裔がこの有り様である。いかにこの風景が美しさをなくしたかは、数年前、和歌山市へ講演にいったとき、話の題材に織り込むために車窓観察を続けたとき再認識した。

 東京を発ち、霊峰富士の眺望を楽しみにしてさしかかった正面山麓からは、幾多の煙煤煙突とスプロール風景のために、早く通り過ぎたくなった。ニッポンが新幹線のスピード開発に狂奔してきた謎が解けた気がした。米国の作家アリソン・リュリー教授のカモフラージュ原理を思い出したからだった。

 女史の著書『衣服の記号論』3)によれば、英国人の服装の最大の特徴はカモフラージュ、偽、つまり周囲にまぎれるという原理である。都会の服に最も多い色は石、セメント、煤煙、曇り空、濡れた舗道の色合いで、煙突の蓋と呼ばれたシルクハットが徐々に消えていったのは、石炭炉に代わってガスや電気が使われるようになり、カモフラージュ効果がなくなったからという。

 極端な例示ではあるが、ファッション以外にたとえてみると、醜景隠しのスピード競争というカモフラージュ法則?が浮かんできた。鈍行、緩速でじっくり見られたくないのである。東海道新幹線からの眺望は、無機的人工物に織り成された田園風景と乱雑都市の連続であり、私にしてもたびたび「トンネルに入るとほっとした」気持ちに襲われた。とくに米原を過ぎると、スプロール風景が古都京都の前後にかけて増えていき、カー氏が「巨大な灰色の軍艦ビル」と形容する環境破壊のシンボル京都駅が君臨する。同氏は、犬は電線埋設、歴史的景観の保護、住みやすく美しい住宅、鬼は派手な橋や博物館だといい、電線については、政府のプランナーが「電線を埋没するといった都市のアメニティは贅沢」とみなしているためであると、「アメニティ」に言及した。

 新大阪に着いて、阪和線に乗り換えると間もなく、おや、ここには日本があると感動する風景が伴走してくる。新幹線のなかでも地方新幹線にはまだ救いがあり、支線に入ると美しく懐かしい風景がかなり展開してほっとする。その一例が阪和線だったわけである。

 この東海道新幹線風景のひどさを公表すれば、外人たちは日本でバッシングされかねず、カー氏が文化人の友人たちに相談すると、「一挙一動がマスコミに監視されている我々の立場では、公に自由に意見を言うわけにはいかない。ぜひ書きなさい。」と告げられ、自由人カー氏が勇を鼓して世に問うたのだった5)。

 ところで、今ひとつ私が「トンネルに入ってほっとした」気持ちにさせられるのは、どの鉄道を使うにしても都市へ入るのに、なぜ醜い風景から入らざるをえないのかという不快感である。この風景は、韓非子とリュリーにあやかれば、乱雑都市にまぎれ込む醜化のカモフラージュ現象なのだろうか。

 昭和初年のこと、都市美に執念を燃やした阪谷芳郎という男爵が、帝都について慨嘆した。「各地より入込む鉄道電車が市に入らんとする場末の場所が裏店等に往々面し甚だ不愉快感ぜらる」と書いたのだった4)。その都市醜は二十一世紀のいまも改善されていない。これもカー氏に声を上げてもらわないといけないのだろうか。

 最後にもう一例、警句をもってニッポンの風景破壊を指摘したひとりに、バーナード・シヨウ翁がいる。かつて来朝した折、彼一流の皮肉を込めて、「ラフカヂオ・ハーンの美しい日本なんか何処を探しても見当たらん」といい、「日本はその軍事費の過大が、当然かゝるゴミゴミした都市を招来する所以だ」と東京日日新聞で慨嘆してみせた5)。都市計画は国防に比すべき重きものとの発想は、風景が軍事予算にまぎれ込んで醜景化するカムフラージュを衝いたものだった。

 それであるのに、十五年戦争に敗れ軍事予算の重圧から逃れた日本が、なぜいまも風景破壊をつづけ、トンネルに入ってほっとさせるのか。景観法が待たれるゆえんである。

 西村教授は次いで、「九十四年の日本のコンクリート生産量は合計九一六〇万トンで、アメリカは七七九〇万トンだった。面積あたりで比較すると、日本のコンクリート使用量はアメリカの約三〇倍になる」という一節を朗読すると、学生たちは土建国家ニッポンに驚いて、「おーっ」とどよめいた。

(注)

1)Alex Kerrは1952年米国メリーランド生まれ。1964〜66年、父の関係で横浜の米軍基地に住む。エール大学(日本学専攻)卒業の文化コンサルタント。徳島県東祖谷山村の江戸民家「ちいおり」を購入、NPO「ちいおりプロジェクト」を組織し、田舎家の保存、文化と自然の活性化を図る。著書『美しき日本の残像』(新潮社)で1994年新潮学芸賞。英訳は“LOST JAPAN”でオーストラリアで刊行。本書『犬と鬼─知られざる日本の肖像─』(講談社、2002.4)は全389ページ。原著”Dogs and Demons”はアメリカ、韓国でも刊行された。数々の文化遺産、美しい国土、すぐれた教育制度、世界一の個人貯蓄がありながら、なぜ日本は道を踏み外し失墜するのかについて、コンクリート土建国家の実態をあふれんばかりのデータで実証的に告発している日本論である。

2)『韓非子』は警句的故事を多用し、逆説の自由を駆使し、歴史観、社会観の論述は鋭利であるが、環境問題の特化はみられないだけに、カー氏による採用には意外性がある。犬と鬼についての文脈を『韓非子』原典20巻55篇中に検証するため、新釈漢文体系『韓非子』(竹内照夫著、明治書院、上巻1960年、下巻1964年)に当たったが見つからなかった。カー氏あるいは講談社が『韓非子』中の出典箇所を明記せず、しかも『犬と鬼』の巻末索引を作成しなかったのは不親切である。

3)著者Alison Luriはコーネル大学教授。『The LANGUAGE of CLOTHES』(1981)の木幡和枝訳書は、文化出版局、1987年刊行。

4)都市美協会機関誌『都市美』創刊号(1931.4)p5に掲載。

5)『都市美』第4号(1932.2)p4で紹介。


  情熱・濃密・総合の西村東大講義

2004年4月28日 

 大学は改革時代から革命時代1)に入ったといわれる。『大学教育学』2)という書の大学授業論には、教員の授業意図にうまく「ハマル・ズレル」、授業の流れにうまく「ノル・オリル」の2軸から授業を説明している。西村東大講義の私の感想は覚醒的であり、都市デザイン研究室ホームページ、教育工学分野からの「質的研究法」3)および『韓非子』4)等を参考にしながら、次のように述べることができる。第一は学生時代に抱いた疑問を持ち続け、それに応える講義が実現できた感動をまず述べて、こころある学生をつかんだことである。「高度成長期、新しいのがよくて、古いのは悪いと物を壊すばかりの都市計画に対して違和感を持ち、以来ずっと環境保全型の都市計画を考えてきて、今やっとこうして都市保全の授業にして話すことができた。」5)

 補足:学問の開拓について、川北稔が「イギリス人は日常生活のレベルで、何を食ベ、何を身につけ、何を考えてきたのかという問題がほとんど研究されてこなかったことに疑問を持ち、生活社会史研究会をつくり、『路地裏の大英帝国 イギリスの都市生活史』6)を刊行した功績を思い出す。

 第二は西村教授の誠実な人格の昇華であること。著書『都市論ノート』には「一貫して頑固に論じてきた」、そして「それぞれの地域ではそこの現実から逃避することは許されないのであるから、地域を論じる者として、こうした姿勢は当然」であり、「恵まれない立場や弱い立場にいる人々の間に立って発言しようとする……先進国よりもアジア、国家権力よりも住民サイド、大企業よりも町場の庶民の立場に肩入れ」7)と書かれている。その民主的魅力が磁石のように講義の魅力になっている。

 第三は講義は情熱・濃縮・総合が特徴であること。白墨が煙を吐き、通常授業で前半期はかかりそうな内容が1時限で語られる。それは格段の情熱と濃縮された内容でなくてはならない。学生の質の高さと十全なプリント配布がそれを受け入れ可能にしている面もあるが、とりわけ総合的に講義するためには、いかに講義の準備段階から煮えたぎっていることかと感じ入ってしまう。

 第四は文理融合の文理シナジー8)であること。理系に属しながら理系、文系の際立つ融合接点に立ち、それをさらに際立たせる授業が自然体で行われていることである。学問をして市民運動に学ばせる姿勢、理論と実践を両立させ、調和と総合を推進する実力は説得力を持つ。都市デザイン研究室の枠組みに「参加型・協働型まちづくりとその過程や組織に関する研究と提案」を掲げているのは、文理シナジーの表象である。この枠組みでは、理系のみならず文系の人のかかわりや参加が望ましいし、事実まちづくりのフィールドにおいては、圧倒的に文系の人が多いためである。

 第五は講義を人格と微笑で包括し、学生のこころを見抜き、とらえていることである。講義中、微笑をたやさない人格がいかに学生のこころを開かせていることか。講義内容がいかに立派でも学生に聞く耳を持たせ、そのこころをとらえなければ教育効果は望めない。

 補足:韓非子のことを西村講義の関連で調べなくてはならなくなり、読み進むうちに次の一節に出合った。(理系授業で文系の古典を読むこころを刺激する授業は異色である。)君主進講の心得を説いたものであるが、真髄は西村講義に通じる。

 「およそ人に意見を述べることのむつかしさとは、何か述べるに足るだけの知識を私が持つことのむつかしさでもなく、また私の意向をはっきりと伝えうるだけの弁舌を私が持つことのむつかしさでもなく、また人にかまわず存分に口をきいてすっかり言尽くしうるだけの度胸を私が持つことのむつかしさでもない。およそ人に意見を述べることのむつかしさは、話す相手の心を知り私の意見をそこにうまく当てがう、そのむつかしさなのである(凡説之難、在知所説之心、可以吾説當之)」。

 第六は講義にロマンがあること。たとえばある図書を紹介し、「私が定年になったら、こうしたものを書いて日を送りたかったですね。」と言い添えるひとことが、こころある学生に学問と人生へのロマンを覚醒させるのである。その書は渡辺京二『逝きし世の面影─幕末・明治の外国人訪日記─』9)であった。次はその一節である。

 「幕末・明治に日本を訪れた外国人にとって、日本はおとぎの国であったようだ。言葉が通じないことや、彼らがものめずらしい外国人であったために殊更に日本人のことを純朴な民衆だと感じたのかもしれない。当時の日本人はラテン系だったのだ。あくまで朗らかで、自らの不幸もありのままで受入れ、笑い飛ばしてしまうパワーがあった。住居構造も開けっぴろげでプライバシーの観念は無い。銭湯は混浴で、彼らが道を通れば娘達が一糸まとわぬ姿で銭湯から飛び出して見物に来る。街は子ども達やのら犬の楽園で、思い通りに振舞っている。民衆は宗教的権威や政治的権威に阿ることなく、かなりの範囲で無政府的な自治が浸透している。」

(注)

1)『大学革命』(別冊環2、藤原書店、2001.3)ほか参照。

2)京都大学高等研究開発推進センター編、培風館、2003.11。

3)S.M.ロス、G.R.モリソン著『教育工学を始めよう 研究テーマの選び方から論文の書き方』向後千春ほか訳・解説、北大路書房、2002.4。その「質的研究法」は主観を排さない個人ドキュメント(日記、レポート、ノート、手紙など)、社会や集団で流通しているドキュメントや資料、参与観察から得られた記録、行動観察の記録、会話記録などのデータによる研究を重要としている。ただし教育工学の「工学」には抵抗感がある。

4)竹内照夫『韓非子』(新釈漢文大系、明治書院、上巻1960.12、下巻1965.5)全20巻55篇収録。原典に著者現代訳・解説つき。「説難第十二」から引用。

5)2004年4月19日、東大工学部4年「都市保全計画」初講義。

6)角川栄・川北稔編、平凡社、1982.2。同書はアメニティの背景研究にも参考になる。

7)西村幸夫『都市論ノート 景観・まちづくり・都市デザイン』(鹿島出版会、2000.7)はしがきから引用。

8)シナジーsynergyは相互乗り入れの意味で使われ、文理シナジー学会もある。会長は高辻正基東海大学生物工学科教授。

9)著者は河合塾福岡校講師、葦書房、1998.9.和辻哲郎文化賞。


  都市計画学者は法学者

2004年5月10日 

 「日本の建築・都市計画法制の出発点にはもともと強烈な美観意識があった。」1)

 西村幸夫のこの鮮烈な一言は、明治後期、「街上の体裁」等整備目的で萌芽した都市計画の理念を総括してみせた。それは大正期に入り、都市計画が制度化される過程で「景観は贅沢だ」意識の大蔵の反対により都市施設整備中心に変身し、都市美諸規制は片隅へ追いやられ、1919年市街地建築物法の美観地区という一制度になって踏みとどまった。以来、関東大震災、第二次世界大戦で廃墟と化した東京は、戦後復興を遂げたものの乱雑都市化し、建築史家藤森照信をして「画家の立ち去った街には絵は生まれない。かくして、我が東京の風景は次第に衰弱してゆく。そして現在、世界都市とうたわれるようになった東京の中心部を描く画家はほとんどいない。」2)と直言させるに至った。

 景観破壊については、今や景観法による歯止めへの期待が強まった。しかし、法成立に向けてのすさまじい啓蒙活動が、本来人文系に比べて苦手とみられていた理系の科学者によってなされている事実が、「法案審議に先立ち景観法案を読む」緊急集会3)で浮き彫りにされた。講師は西村幸夫東大大学院教授(都市計画)が中心で、人文系なしの運営である。

 西村教授が立法の趣旨説明に続いて、同法実効性の鍵である「認定」制度の評価と限界についての解説を折り畳むように行った。それは14項目に及び、大半が認定をめぐるものであった。そこでは条文解釈の鋭利さといい、法律学者の識見を感じた。考えてみれば、都市計画領域の学者は、都市計画法制と法規に通暁していなくてはならない。通暁でよしとする法学者と違って、その上に文系では手も足も出ないエンジニアリングにおいて、膨大な都市設計を行うのである。法学者と工学者、文系人と理系人の一人二役である。

 この集会では、法案についての論点プリントが配られ、景観地区についてもなぜ現行地区計画の活用によって推進しないのか、新法でたださえ複雑な都市計画法制に屋上屋をもたらすのではないか、発効によって自主景観条例の自治体に国の関与が強まりはしないか等のマイナス面チェックの論点が洗いざらし提示され、上滑りの翼賛会的シンポジウムとはまったく違った運営だったことは、理系の冷静精微な肌合いと信頼感を参加者に与えた。

 西村教授はこれら論点に対して前向きの要点説明をし、「国交省だけでなく国会全体の問題とすべきである。」などという建前論等、白熱する議論のうちに迎えたエキサイティングなフィナーレで、「景観の名において市民はさまざまな不満足感を託している。法案内容について難があるとはいえ、景観の根拠法を今成立させることが急務である。完璧を期して不成立になるより一歩前進を。」と発言して会場を圧した。

 ともあれ、法案成立を期す集会で、えてして賛成材料をそろえての目的集会になりがちなのを、あえて法案へのアンチテーゼを繰り出しての討議方法は、成り行きであれ演出であれ、聴衆の疑点を晴らし、景観法への理解と情熱を高めるロゴスとパトスの場を現出した。けだし、都市計画学者は法学者であることを市民は知ったのだった。

(注)

1)西村幸夫+町並み研究会編著『日本の風景計画 都市の景観コントロール 到達点と将来展望』(学芸出版社、2003.6)p178。

2)岩崎吉一責任編修『風景画全集 美しい日本3 東京』(ぎょうせい、1988.10)p89。

3)2004.4.30、バブルの教訓を生かす自治体議員の会主催、衆議院第一議員会館。講師西村幸夫教授ほか。


  景観法とナショナリズム

2004年5月12日 

 画期的な景観法をめぐる期待可能性として、いまだ論じられていないナショナリズムについて、法案作成の起点である国土交通省「美(うま)し1)国づくり委員会」の名称から推測して、今広範囲に拡大しているナショナリズム風潮からする美し風景保全の要望も包摂されたのではないか、およびこの現代ナショナリズムを景観法を実体化するための風景保全と創出に向けてのパワーにしていくことも、これを考慮すべきではないかという観点から問題提起を試みた。

 2004年朝日新聞全国世論調査2)によれば、憲法改正賛成が過半数を上回った。2002年9月に『ぷちナショナリズム症候群 若者たちのニッポン主義』3)において、屈託ない若者のニッポン大好き意識をプチナショナリズムと命名提示した精神科医香山ユカは、2003年5月の著書『「愛国」問答 これは「ぷちナショナリズム」なのか』4)において、前著執筆時点では「まだ流行現象や印象論のレベルでしかなかった国家主義、ナショナリズムが、その後、急激に社会全体の現実問題となった。」と書いた。そのことは、1994年にロンドン大学教授アントニー・D・スミスが、『ネイションとエスニシティ 歴史社会学的考察』(The Ethnic Origins of Nations)の日本語版5)への序において、「日本人独特の性格を論じた本が、洪水のごとく出版されています。」と述べている現象の加速を物語る。

 プチナショナリズムは、神戸芸術工科大学助教授でもある香山が受講大学生たちに対して、「あなたにとって日本とはどんな国ですか?」と問うた記名式アンケートの結果、無邪気に「ニッポン、大好き」の答えが半数近くを占めた潮流に命名したもので、次のような意識である。

 日本は、「“わたし”の国」「誇り高い国」「美しい精神の国」「伝統文化がすばらしい国」「ほっとできる国」「ニッポン、最高」「だって日本は、自分の生まれた国、母国、豊かで安全で落ち着ける国。そして私は、ニッポン人なんだもの。」

 この「ニッポン、最高」「美しい精神の国」等には、美しい風景の国というイメージも内包され、それが一般人のナショナリズム的意識に包含されて、直接間接に政府の景観法案提出の一背景になったのではなかろうか。これについては、具体的社会調査がみられないので断定はできないが、背景になった最近の国民精神、国民世論を考えるとき、その推測が成り立つ公算は小さくない。

 ところで、ナショナリズムは排他性と独自性が特色であることは、学問的に共通認識である。しかし、もともとナショナリズムには、改革への正当性を過去の歴史風土に求める傾向があると、スミスが「伝説と風景」の章で指摘したことは注目される。

 「現代社会の逆説の一つ。それは、変革への渇望が過去への深い郷愁と結びついていることである。人間やその集団は、過ぎさった昔の生活方法を記憶にきざんでいる。どれほど深く新しい思想や社会の変革にかかわっていても、多くの男女は、今も、過去の記憶があらわす伝統や価値にすがりついている。……どんな社会も、変革を正統化しなければならない。現代の変化のスピードはまことに速い。だからこそ現代では、ますます過去の先例を求めることが必要になる。」6)

 しかし、これはナショナリズムと風景を特化したわけではなく、たとえば仮説にせよナショナリズムに風景を発見したという意識はみられない。しかし、この見解は西村幸夫がますます精力的に、過去の遺産である風景や町並み等の歴史的環境の保全を計画論として科学的に提唱していることと矛盾なく共鳴し合うはである。といって、わが国においても、寡聞にして日本のナショナリズムと風景といった特化された研究が見当たらず、研究の開拓が待たれるのである。

 一方、考えをめぐらせば、ナショナリズムのスタンスは国家主義的と民主主義的とに分かれると判断される。ナショナリズムは国民精神、とくに言葉、風景等に表れる。2003年1月に設置された国土交通省の「美し国づくり委員会」の「美し」の名称自体、大和言葉の古語であり、近年の一時期まちづくりで使われた「まほろば7)国づくり」と軌を一にした自国の歴史的風土への愛着を基盤にした地域づくり、国土づくりを示唆している。美し国大和三山をかつて民有地から国が買い取り保全したこともナショナリズムであり、そうしたことが、美し国がわが国よ美しくあれというまほろば意識や美し国意識をほうふつとさせ、その兆表を求める点で、日本の風景を保全・創出する基盤力になりはしないか。

 西村幸夫は「アメリカにおける1960年代前半までの歴史的環境保全制度の展開」論文8)において、愛国主義的な団体のうち全国規模で活動を行っていたふたつの団体Daughters of the American Revolution(1890年設立)およびNational Society of the Colonial Dames of America(1891年設立)に言及し、それらは愛国精神鼓吹のために設立され、1920年代の建築単体保存に対しての成果は顕著だったという評価を紹介している。一方、西村はわが国の歴史的環境保全史において、文化財保護法制定までの動向の中に、皇国史観から解放されてきた歴史を見据え、それを「史蹟から史跡へ」と述べたあと、具体例として「都城址、宮址、行宮址、其の他皇室に関係深き史蹟」から「貝塚、遺跡包含地、住居跡、古墳、神籠石その他このたぐいの遺跡へ」と東大講義で説明した。

 皇国史観はナショナリズムであり、その脱皮を「蹟」から「跡」への国家行政を評価する一方で、米国の愛国団体の風景保全に果たした役割を評価していることは、一見矛盾にみえるが、このコインの裏表がナショナリズムなのである。ナショナリズムの偏狭は批判されるべきであるが、皇居、社寺を核にした風景破壊の抑止力だった面は無視できない。1933年美観地区第一号に皇居の外郭一帯が選ばれて今日に至っているのもそうである。その3年前の1930年、都市美協会、宮内省等の働きかけにより、建設中の警視庁望楼の高さを抑止でき、風景破壊を防止できたのも皇居の俯瞰を避けるのが契機であり、戦後高度成長期の丸の内美観論争による海上火災ビルの高度抑止問題も同じ理由がきっかけだった。

 奇妙に思われるかもしれないが、民主主義とナショナリズムの混在は民主国家の実体である。民主主義・ナショナリズム国家であるアメリカであったために、ウォーナーリストWarner List9)でかけがえのない皇居、寺社、城郭、美術館等の日本の重要文化財がリストアップされ、博士の懇請もあって京都と奈良は爆撃を免れたとされる。このことについて、それは「ウォーナー伝説」にすぎないとする説がある。いずれにせよ、これらの文化財の多くは日本の風景を形成するランドマークでもあった。

 また、景観法では「良好な景観」と平板な表現で規定されているが、もともとは「美(うま)し」委員会のコンセプトから進展していることを思えば、「良好な景観」には美しい日本の風景が想定されているとみるべきである。ここにおいて「美し」の風景を求め、保全し創出する直接間接パワーとして、広範な現代ナショナリズムの基盤も考えられる。それは和風景だけにこだわらず、和洋風景、洋風景、和亜風景等総合的な風景を包み込んでの今様「美し」を考えることである。そこではスミスの紹介する「西洋の技術、東洋の道徳」10)や各地で提起される「景観10年、風景100年、風土1000年」11)の示唆に富んだコンセプト等が、日本の風景のバックボーンになりえよう。とくに景観法の実体化に当たっては、「風景100年」の認識に立ち、将来性の大きい若者の関心と行動を促す方策は賢明な一策である。

 ナショナリズムといえば、皇居外郭一帯が最初の美観地区に制定されたのは、皇居があったからであり、また廃仏毀釈で文化財がかなり破壊されたものの、寺社から社寺政策への転換によるナショナリズムは、清浄=神道によって日本の風景破壊の歯止めになった面もある。人物像から風景まで自民族の文化美を求めるナショナリズムは、国粋美という偏狭な国家主義的美は論外であるが、「美し」美の希求を高める側面を無視すべきではない。

 現代は地球規模で考え、地域で行動する時代である。大衆消費、IT革命、グローバリゼーション、ユニバーサルデザイン、巨大な権力維持時代においても、ナショナリズムは消滅することはないと思われる。それならば、これを景観法戦略の視野に入れる意義があろう。わが国ナショナル・トラスト運動12)の発端といわれる1964年の古都鎌倉の御谷騒動も、鶴岡八幡宮という歴史的舞台であった社寺の裏山だったことが、市民をして環境破壊に対して決起させた。そして今必要な風景対策には、景観法のためにプチナショナリズムの若者たちをして、「美しい精神の国」意識の中に「美しい風景」というイメージを浮上させる働きかけも加えて考えたいのである。

(注)

1)満ち足りて心地よい、美しく立派であるの意。美し国は満ち足りた国、美しい国。万葉集に「美し国そあきつ島大和の国は」とある。

2)2004年4月11、12日、全国の有権者3000人を対象に面接方式で実施、5月1日付朝日新聞朝刊で発表した。憲法全体をみて、改正する必要があるの答えが、前回調査(2001年)の47%から58%に増え、同社調査で初めて5割を超えた。

3)中公新書ラクレ(2002.9)P5。「ニッポン、最高」といえば、東大工学部都市工学、建築、社会基盤学科が中心となり、「トウキョウサイコウ」が2004年第77回五月祭で開催されるのは興味深い。東京という大都市を「再考」し、「再興」して、「最高」にしようというプロジェクトで、他大学も参加して風景を含む東京を考える。

4)中公新書ラクレ、2003.5。本論の引用はp14。

5)Antony D.Smith著、巣山靖司・高城和義他訳、名古屋大学出版会、1999.6.原著は1986。

6)『ネイションとエスニシティ』p205-206。

7)優れたよい場所、優れたよい国の意。日本書紀に「大和は国のまほろば」とある。1977年、石原慎太郎環境庁長官が英語のamenityの日本語解釈として、若い人向けにこの国をまほろばと呼べる国にしたいとして話題になり、一部地方でまほろば国づくりが行われた。石原が東京都知事になって以来の言動は危険視もされながら、社会問題化が進展しないところに、ナショナリズムの拡大がみられる。

8)日本建築学会計画系論文報告集第444号、1993.2、p106。

9)戦時中アメリカでは「戦争地域における芸術的歴史的遺跡の保護・救済に関するアメリカ委員会(通称ロバーツ委員会)」を組織し、委員であるハーバード大学のウォーナー博士は、日本の文化財リスト(「ウォーナーリスト」)を提出し、京都と奈良は爆撃しないよう懇請したとされる。全国的に百数十箇所が挙げられ、重要度も記されていた。1945年11月11日の朝日新聞に、「京都・奈良無傷の裏作戦、国境も越えて人類の宝を守る。米軍の陰に日本美術通」の記事が出てとくに知られたが、それはGHQの宣撫工作による「ウォーナー伝説」であるとする説もある。結果的には約半数が焼失した。『芸術新潮』1969年8月号にもリストが掲載されている。

10)『ネイションとエスニシティ』p58。その注には「近代世界におけるこのスローガンの使用について、Levenson(1959)を参照。なお今日のアジア・アフリカの発展途上国の指導者が、古来の要素に西洋の要素をまぜあわせ、古来の要素の望ましい変化を正統化するさまざまなやり方については、Kautsky(1962)所収のM.Matossian,”Ideologies of industrialisation:some tensions and ambiguities”を参照。」とある。p275。

11)関連データとしては、 山形県金山町が街並み(景観)づくり100年運動を起こし、その実現のために、1986年3月に「金山町街並み景観条例」を制定した事例がある。

12)英国で1895年にハンター、ヒル、ローンズリーによって、歴史的環境や自然景観保護の目的で発足した環境保全団体。市民からの寄付金による買い取りや寄贈による保全を行う、英国民間最大の土地所有団体である。日本への導入が盛んで、1968年に財団法人日本ナショナルトラストの前身である観光資源保護財団、1983年に社団法人日本ナショナル・トラスト協会の前身である日本ナショナル・トラストを進める全国の会が生まれた。1964年の鎌倉御谷騒動から生まれた鎌倉風致保存会がわが国最初のナショナル・トラストとされている。


  都市計画における周縁とインタラクション

2004年5月17日

 第1章 背景とSetting

 英国の都市計画における戦略的眺望(Strategic View)制度1)は、国家的に重要な眺望指定保全制度であり、「戦略」というとらえ方の背景に、ネーションの美的感覚とナショナリズムの積極意思を感じる。眺望と保全が「戦略」という語でセッティング(据え付け)されていることは、平和美に敏感な日本人のひとりとして、権力的、戦争的ニュアンスを感じないでもないが、そこまでの存在権威を眺望に与えるコモンセンスに感銘を受ける。

 ところで、英国の都市計画で関心を引くのは、セッティングを「周辺環境」の意味で使用2)し、登録建造物の周辺環境を重要な要素としている法的視座についてである。主景を十全に守るにはそれを囲む風景、たとえば庭園その他を守る必要があるからである。その周辺環境のうち、眺望と背景をワンセットにした主・背景一体保全の背景協議区域制度3)は、対象物の背後2.5〜4kmで設定されているが、その距離の是非よりも、この制度が日本人の関心を引くと思われるのは、わが国が借景美の伝統を持続した国であるためである。

 主景のない背景はない。それに対して背景のない主景はあるものの、背景を主景以上に重要とみなす借景は、フィジカル美を超えて精神美を刺激し高揚させる。その借景伝統国であるわが国の現代においては、環境悪化のため借景醜を生み、背景を植栽や塀等で遮断する事例が増えている。

 また、スカイラインというと、空とビル群の接点輪郭の例示が多く、その向こうに遠望される山や丘や森林等による外郭線までの例示が少ない。このことを風景学者でもある西村幸夫は鋭く指摘4)する。スカイラインはhorizontと同義語で、空と大地とが接する地平線として使われていたのが、シカゴやニューヨークに摩天楼が出現するに至って、一直線で静的なそれから空を背景とした山並みや建築物群、樹木群の輪郭線がスカイラインといわれるようになった5)。そのことに異存はないが、建築物群の輪郭図だけがスカイラインとして論じられて事足れるという状況は、確かに問題である。日本こそ背景文化、裏文化の奥に美を求めてきた国民性があるからである。英国の都市計画以上に背景協議地区やセッティング行政が望まれるのである。

 これらに学ぶことは、換言すれば風景鑑賞と風景計画は周縁までを広域把握し、主体と周縁との相互作用の重要性に着目するということである。そこまでは従来一般に考えられ、それぞれについてのインセンチブは行われてきている。英国の計画行政はそれを超えて、主体と周縁は概念の中に分離できないワンセットとして在るという認識に到達しているとも考えられるのである。少なくともその志向性を示唆していると思われる。

 そのことは、臨床心理学がやりとりの相互作用をインタラクション(interaction)6)として把握する思考の新しい潮流が参考になる。普通は自分がいて相手がいて互いにやりとりすると考えるが、インタラクションは、互いのやりとりが最初にあり、そのあとで自分と相手がいることが分かると考える。たとえば、自分の個性は、自分だけが持っているものではなく、相手と合わせてひとつの個性になっているものとする。自分の能力も自分だけのものではなく、人と合わせてひとつの能力になっているとする。少し前まで心理学では人の心をその人ひとりに限ってみていた。現在ではまわりの人とのやりとり、相互作用をセットと考えるということであり、風景計画に対して極めて示唆に富む。英国ではいわばインタラクションによって、主景と背景のセッティング、つまり人と風景とのやりとりを本来一体と考えた上で計画行政を促していると期待したい。

  第2章 有名建築から無名民家への熟成

 英国都市計画のとくにセッティングのコンセプトは、保全地区、戦略的眺望保全を埋める役割を果たしていることは興味深い。都市の周縁、間隙にまで美の確保が及ぶことに国民精神の成熟をみる。これらのことは求心美だけでなく、求心美を生かすための遠心美の止揚といってよく、そのコンセプトにも成熟をみる。一方、質的拡大もその成熟に加わっている。登録基準に外観評価は最重要であるが、技術革新の対象だったもの、社会経済史的観点からする重要度評価等も制度化されていることは成熟である。まさに各国の歴史的環境保全が点から線へ、線から面へ拡大してきたほか、有名建造物・モニュメント主義から、無名・匿名・市民的対象の指定へと拡大してきた傾向は成熟化のモデルといえる。

 すなわち、1960年代から風景の中に不可欠な多くのすばらしい民家や農家の保存を訴える世論が高まり、有名建築と無名民家との間に偏見なきコモンセンスの熟成をみせたのである。このことは欧州諸国が1975年を建築遺産保存年とし、欧州会議の「都市景観と遺産の保全に関するアムステルダム宣言」を頂点に、欧州各国で歴史的町並み保存運動を巻き起こしたことで特筆される。その原動力の一つになったのが、英国のシビック・トラストだった。7)

 こうした潮流は日本では町並み保存運動の高揚と伝統的建築物群保存地区制度および登録制度で拡充してきたのと軌を一にしている。この伝建制度の新設は、奇しくも欧州建築遺産年と同じ1975年であった。世界的同時潮流だったのである。

 ところで、著名な大聖堂、城郭、寺院等を眺望主体として、それらの背景、周辺、無名で取り囲む保全観は、それぞれの相互作用が美観を形成していることに裏打ちされている。これを超えて元来一体のものであることを強調し、全体像、全体座標を示してから、個々の要素をプッシュする計画手法は、発達心理学でいうインタラクションと重層させることにより、その価値と実効性はいっそう深まると思われる。

(注)

1)戦略的眺望の対象は、ロンドンというより英国のランドマークであるセント・ポール大聖堂ないしは国会議事堂となっている。

2)英和辞典、たとえば研究社英和中辞典には「背景(background)、境遇、環境(environment)」とも載っているが、大方は据え付けの意味にとられている。

3)Background Consultation Area。眺望点からみて対象物の背後に指定される区域。『都市の風景計画 欧米の景観コントロール 手法と実際』(学芸出版社、2000.2)「イギリス 眺望の確保と保全」p27。

4)2004.4.21東大大学院工学系「都市設計特論」講義で指摘。

5)『造園用語辞典第二版』(彰国社2002.5)p279参照。

6)杉原一昭監修『はじめて学ぶ人の臨床心理学』(中央法規、2003.4)p122に、「発達は、遺伝的要因と環境的要因との相互作用による。遺伝的要因は成熟という様式、環境的要因は学習という様式でそれぞれ発達的変化をもたらす。」とある。なお、成熟という語は英国の諸制度を形容して使われることが多い。

7)『公害研究』VOL.13.NO.21、1983(岩波書店)酒井憲一「アメニティとコミュニティ──わが国におけるシビック・トラスト運動への期待」p12参照。シビック・トラストは「美を育て醜と闘う」ために、住み働く身近な環境の保全や改善にかかわる非営利団体で、1957年に元住宅大臣ダンカン・サンズの提唱で設立された。1967年の「環境保全法The Civic Amenities Act」や1974年の「都市農村環境保全法Town and Country Amenities Act」の成立に大きな力があった。


  俯瞰・仰瞰・等瞰景

2004年5月19日

 眺望には俯瞰景・仰瞰景・等瞰景がある。俯瞰景という語があって、その後に仰瞰景ができ、等身大、目の高さの景としての等瞰景は筆者の命名である。まちづくりは日常性の等瞰だけでなく、非日常性の俯瞰、次いで仰瞰、つまり外部の目が必要である。

 様々な都市機能、たとえばまちづくりに際しては、その問題点を住民スタンスからいかに提示するかが先決であり、それには住民の意識検証が最重要である。しかし、外部の目の導入がなければ、「住めば都」式現状肯定によって、改善は進まない。外部がプロフェッショナルであればあるほど、そのまちの歴史と文化について本気の事前学習が必要である。

 人々が住み働く環境は、それらの人々が最も関知していることで、外部からとやかくいわれなくても、満足していればよいではないかという論は意外に根強い。しかし、外部から比較する目なくしては、案外問題を改善することはできない。日常性を見るには、日常性に埋没して見ていては見えないことが多い。非日常性から日常性を見ることである。

 ところで、等瞰にこだわる論が1935年の『都市美』1)の「街の美観論」に掲載されている。市政会館塔上から丸の内の美観地区を俯瞰してから、次のように述べている。

 「「街の美観」と言ふ事は上から眺めた美ではないのである。「街路の美観」と云ふのは街に立つて眺めるのを申すのである。……街の美観とは上から眺めた所の美ではなく、街頭に立つて眺めることを云ふのである。而して其れも天然の地形に恵まれたる美さを云ふのではなく、人工の美を云ふのであつて、街に立つて眺めた道路の舗装、その両側にある街路樹、両側の建物と云ふやうな綜合美を指すのである。」

 街路に立って眺める風景、等瞰景は当時も今も基本であるが、近年は高層住まいが日常化し、従来かなり非日常行為であった俯瞰もまた日常行為となった。一方、江戸時代には日常性であった筑波山や富士山等の仰瞰景が見直されるとともに、川面や海上からの仰瞰景が、隅田川の定期水上バスや神田川と隅田川周遊観察イベント等で復活してきている。次は文京区教育委員会主催(2003年)「神田上水大江戸船めぐり」記事の一節2)である。

 「文京区にとっての神田川は、唯一顔の見える川である。視点を変え、船上から眺める街の景観は地上のそれとは全く様相を異にする。両岸に林立するビルは都会の樹林である。この渓谷を船が航行する。」

 まちづくりにおいて、外部から入って献身的に活動しながら、一定期間が過ぎるとさっと手を引いてしまうことが、公務にしてもボランティアにしても非常に多い。「また風の如く去るのですか。」と住民や地元組織から苦言を受けるわけである。そこで西村幸夫は、東大講義で次のようにプロフェッショナルを目指す学生に向かって、情熱的に説くのである。

 「住んでいる人は、住めば都で見えていないし、変えたくない。したがって、外から生活環境、文化財等のポテンシャルを指摘していくことは重要である。それでこそプランナーに意味がある。ただし、それには本気で取り組むことである。」3)

(注)

1)都市美協会機関誌。その13号(1935.11)p18。執筆者は工学博士佐藤功一。

2)『文の京史跡散歩(2)江戸の町づくりと神田川』(文京区教育委員会、2004.3)p1。

3)2004.5.17東大工学部「都市保全計画」講義。


  都市計画の複合性と国民性

2004年5月26日

 同じ現象が単純でない場合、相反する、あるいは相違する原理、要素にはさまれる矛盾が起こることは多い。都市計画領域においても同じことがいえる。たとえば規制緩和時代に、一方で規制強化を立法することである。このため、せっかくの画期的新法景観法の規制限界が指摘されるのも一例である。

 こうした相反する相について、都市計画学者西山康雄はロンドンの都市再生で検証している1)。「規制緩和の一方で規制強化の秩序があり、民営化が進む中で共同的な事業も増加し、グローバルな資本活動拡大期に、新たなローカル経済活動が活性化している。」と認識し、「これら相反する要素が共存する、複合的な再生として理解することが重要なのである。」とした。人生において多用される知恵としての「飴と鞭」もそうである。これを強引にどちらか一方だけにとらえてはならない。米国の社会学者L・ライスマンも次のように述べている2)。

 「既成の都市理論の第1の欠点は極端な単純化である。都市は、経済的必要あるいは経済的動機だけから発展した経済的環境であるばかりではない。また都市は、優れたものにせよそうでないものにせよ建築物の単なる収容場所ではない。また、都市は、伝統あるいは方便によって定められた政治的境界のなかに閉じ込められた単なる行政機構でもない。」

 西山はさらに、英国の都市計画とそれを導入した他国での変容を解明している。これもたとえばクル・ド・サックにおける英国型と台湾型の差について解析した。そして、わが国においては、英国型都市計画を導入しながらも不可避的に日本型になる現象を解明し、『日本型都市計画とは何か』3)を世に問うている。

 その英国型と他国型のズレは、成熟期社会の都市計画を成長期社会の他国に導入することの齟齬であることを指摘した。成熟期の英国に対して成長期の台湾ではミスマッチは当然であるという判断である。クル・ド・サックは英国では幅6m程度であるが、台湾側はこれを即適用の単純ミスを起こさないように、17mに修正設計して、高雄市内7割の地区に一斉に整備したのが台湾型である。ところが、歩行者天国をめざした中央モールが広幅員のため車が走り、沿道に4、5階建ての建物が次々と建ち、商店はまばらで住商工地区になってしまい、道路は歩車分離に失敗した挙句、格子状街路に改造されていった。

 それは結局、地元民の旧習から現慣習までを把握しなかった計画技法の誤りだったためである。道路の行き止まり構造が失敗の大きな理由になったのは、とくにぶつかる正面(建物等)をむなしい、はかない、縁起でもない場所であるとする正面性についての住民の信仰が根強いことだった。プランナーの進取の気象もこの伝統的な因習に阻まれ、便利な道路に変更を余儀なくされた。ということは、表層の近代化に目がいって、根雪の伝統的国民性を十全に把握した都市設計でなかったということである。国民の心理特性をよく理解しないと、雪崩に遭遇するという教訓がここにもあった。

 日本は戦後のアメリカナイズと高度成長を終え、成長型から成熟型に踏み込んだかのようにいわれもするが、その実、戦前から不変のニッポンが根強く残っている。最近のいわゆる「回復日本」志向や素朴に生まれ育った国大好きナショナリズム(プチナショナリズム4))の風潮もその証拠である。

 これを考えるとき、他国同士の都市計画の比較にあたっては、爛熟期、成長期という過程に応じて考えるにしても、その底に根雪のように執拗に残る基底文化を考慮に入れないことには正当でなく、いつか雪崩で失敗する危険大ということである。その根雪とは何か。結局、特定の国民や民族に共通にみられる心理的特性、いわば国民のパーソナリティである国民性ではなかろうか。これも長い目でみれば変化もしていくが、それにしてもしぶとく生き続けるものである。そして、国民性の理解いかんは外交問題に限らず、都市計画、都市再生にもかかわることである。

 米国が対日戦争にあたって、日本の国民性の研究に精力を集中し、R・ベネディクトの日本研究『菊と刀』(1846)を生んだ。国民性の研究の結果、西欧の非西欧社会に対する世界観が変わった。非西欧社会は想像を超え、多様な社会であったことを認識したのだった。ベネディクトは、菊も刀もともに一幅の絵の部分に過ぎず、相矛盾する性格特性も、日本人が状況に応じて行動するからであって、それは欧米の「罪の文化」と対照される「恥の文化」とした。この日本人の国民性についての指摘は、きわめて妥当である。

 文部科学省統計数理研究所の国民性国際調査委員会が、1953年から日本人の国民性について調査研究を始め、5年ごとに全国調査を続け、義理・人情や受容的自然観および美意識の根強い持続と、相反する私生活優先の価値観の顕在化という国民性の実態を明らかにしている。

 1985-1989年度には「意識の国際比較」を実施し、日本、英国、フランス、西独、ハワイを含む米国で共通質問票による調査を行い、さらにイタリアとオランダにおける調査に発展した。詳細な調査内容と分析結果は、同委員会編『国民性7か国比較』(1998)5)に収録されているが、アメニティとはうたっていないものの、実際にアメニティである「生活の質」(QOL)についての測定等を行っている。その心の暖かさ調査における暖かさのランクは、日本、ブラジル日系、ハワイ日系、ドイツ、オランダ、フランス、イギリス、ハワイ非日系、アメリカ、イタリアの順である。このことは都市計画、都市設計、まちづくり、風景問題においても、日本人の国民性を勘案し、たとえば他国民に比較して、格段に暖かさを求める国民性に対応した保全、創造が必要ということを意味しよう。いかにドライな世相にみえても、日本社会は暖かさの伝統が厳存していることが分かったからである。

 一方、内藤昌は著書『日本町の風景学』6)において、江戸の町並みの「統一性」は主に身分格式とか防火対策として成立したもので、とくに美観を意識したものではなかったものの、美観をまったく考えなかったのではなく、「猥雑」といえる「複雑系の美学」があったとして、次のように「多数を喜ぶ」性格を強調した。

 「そもそもわが国には、数が多いことは「めでたい」とする風習がある。何ごとも多数は、少数よりも人間の願望を満足させる結果につながるわけであるから、あるいは人類に共通した認識ないしは本能的なのかもしれない。」

 この願望は「繁栄の美学」でもあると内藤は述べている。そのことは、東洋人ことに日本人に強く、国民性といえるまでになっているのは周知のことである。日本は四季に恵まれ、自然受容の国民性ともよくいわれるが、大友家持の歌「山川の 清き川瀬に あそべども 奈良の都は 忘れかねつも」のように、「山川の清き」ところにあっても心は都、つまり都市性志向であった。自然愛好国民でありながら、平然として自然破壊をしている矛盾の複合的国民性を認識していなければ、都市づくりも浮いたものになる。

 西山は同著の結びを「足元の日本の現実を直視すれば、今求められているのは、「豊かさ」を達成した社会にふさわしい別の都市計画モデルである。いまだ、豊かさにふさわしい日本風の都市計画モデルは完成していない。」としている。このためには国民性の研究が不可欠と思われる。

 景観法を突破口にした「風景100年」に応える都市計画めざすためには、規制緩和と規制強化を止揚しつつ、国民性を無視しない都市設計を願望したいものである。渡辺俊一が「一国の都市計画の「個性」は、その成立時における当該社会の状況によって、決定的な刻印を帯びるのではないかと考える。」7)と述べた。それに相違はないが、そうした時代・時期によっての変化の奥に、容易に変わらない国民性が厳存しているという複合性を看過すべきではない。さもないと、台湾型クル・ド・サックと同様な失敗を引き起こしかねないからである。

(注)

1)西山康雄は東京電機大学教授。「人間の顔をした都市再生を求めて」(『世界』2002.12)p278-279。

2)Leonard Reissman『新しい都市理論 工業社会の都市過程 THE URBAN PROGRESS Cities in Industrial Societies』(星野郁美訳、鹿島出版会、1968.8)p210。原著1964,1966。

3)学芸出版社、2002.3。p137-160「なぜクル・ド・サックは台湾・高雄で失敗したか」参照。

4)香山ユカのネーミング。『ぷちナショナリズム 若者たちのニッポン主義』(中公新書ラクレ、2002.9)参照。

5)1998.3、発行は出光書店、607ページに及ぶ詳細報告書。統計数理研究所国民性国際調査委員会は、国際比較の方法論としての「連鎖的比較調査分析法Caltural Link Analysis」を開発した。

6)草思社、2001.5。内藤は現産業大学学長、名古屋工大名誉教授、建築史、都市史、風景学。引用は「結章 風景の性格相 町の風景の未来はどうなるのか」のうちp148-149。

7)建築研究所建設経済研究室長(現東京理科大学教授)渡辺俊一『アメリカ都市計画とコミュニティ理念』(技報堂、1977.6)p165。


  公衆衛生と風景

2004年5月31日

 英国の都市計画法の源流は、公衆衛生である。建設省的(国土交通省的)なものである都市計画の源流が、厚生省的(厚生労働省的)なそれというのは奇異に感ずるが、当時の衛生は予想外に広義だった。1830年代、40年代に英国の工業都市を襲ったコレラの猛威を背景にしたチャドウイック1)の改革から1848年公衆衛生法が生まれたが、渡辺俊一『比較都市計画序説─イギリス・アメリカの土地利用規制─』2)によれば、公衆衛生の対象は次のようであった。

 「公衆衛生」は、非常に広い範囲をカバーしていた。すなわち、下水設備、清掃、屠殺場、共同宿泊所、地下室居住、街路舗装・管理、公園、上水供給、埋葬など広範領域における公共コントロールと公共サービスを規定している。これはもはや狭義の「公衆衛生」にとどまるものではなく、より正確には、「公衆衛生的観点からする都市行政全般」をめざす非常に包括的な概念であった。」

 「観点」「全般」ということにより、いかにその語が広義にとらえられ、実践を要請されていたかが分かる。行政措置も、住宅の新改築に際して、地方衛生委員会に設計図を出し、排水溝等のないものは違法とし、街路新設の際は設計図をやはり地方衛生委員会に出して、幅員、レベルの指示に従うことが規定されていた。公衆衛生の範囲とともに関心を引くのは、そうした建設省的な事項が、「衛生」委員会の管轄であったことである。屋外広告は1893年シカゴ万博後、20世紀初頭から出始め規制されていく。

 明治・大正期、先進国に追いつけという国是により、万事導入に迅速だった日本は、長与専斉が岩倉具視欧米使節団に随行して欧米の医療事情を視察し、さらにドイツでゲズントハイツ・プレーゲという語に出合って「衛生」の語を『荘子』から発想した。日本に輸入されたオランダ医学を含め、従来の日本になかった概念なので、衛生と訳したという3)が、英国における衛生の広義概念も紹介・導入された。考えてみれば、日常体験でも風景は心身の健康に影響する実感がある。

 「衛生というのは、生を衛(まも)るということである。……これに対して衛生はもっと積極的であり、社会的である。」と東大経済学部教授山本俊一が述べている4)ことに徴しても、風景が広義公衆衛生概念に組み込まれたり示唆されたりしても異とするところではないのではないかと思われる。

 ただ、わが国の公衆衛生は「衛生警察」の道をたどり、建築もまた建築警察だったことは、狭義の衛生を超え、屋外広告物の取締等を含み、事実上局部的風景規制も行われていたということになる。

 そうした流れにあって、都市美協会の『都市美』第9号5)が「観光と都市美」と題する豊川弘毅という東京市設案内所嘱託の論考を載せ、その中に当時の衛生意識の広さを示唆していた。ネオンサインと看板類について、次のように「衛生」という語を使って非難していたのである。

 「光りの寵児として数年来恐ろしく流行してゐるネオン・サインは夜の街といふ街を埋めつくしてゐるが甚だしいものになると装飾的意味もなければ広告的価値もない。その鋭い刺激は幻惑を感じさせるだけで不愉快なこと限りない。殊に昼間に於て完全に醜態を曝している。之等は衛生上からも都市美の上からも統制の必要があると思ふ。看板でも往々眉をひそめるやうな卑俗なものを目撃する。折角の風致林も心もとない濫伐によってむざむざ風致を害されることも屡々見聞するところである。」と憤慨し、街路風景等も衛生上統制の要ありという文脈だった。とくに都市美といい、ネオンサインや屋外広告物規制をいうとき、それは風景コントロールの一環として考えることができる。

 とすると、景観法でいう「良好な景観」には、広義の衛生概念からのアプローチを模擬演習できないものだろうか。いまどき時代錯誤的発想であるが、公衆衛生法のほか、近代都市計画およびそれが旗印にしたアメニティの概念に、風景が内在していたのではないかということについての追体験的検証である。

 さらにいえば、西村幸夫が景観法案および関連法案について、2004年5月11日に衆議院国土交通委員会で参考人として述べた景観法案へのコメントのうち、「電信柱に象徴される問題のある都市景観は改善されるのか」にかかわる試みでもある。

(注)

1)Edwin Chadwick。救貧法委員会幹事当時に労働者階級の衛生状態の全貌を初めて明らかにした報告書が、工業都市のスラム改善への口火になった。

2)三省堂、1985.5、p37-38。渡辺は東大工学部建築学科卒、都市工学科助手を経て当時建設省建築研究所勤務、東工大、筑波大非常勤講師、その後東京理科大教授。英米独仏中など諸国の都市計画に関心を持つ若手研究者と『比較都市計画研究会』をつくって研究したが、「最も苦労したのは、都市計画の法制・行政面を計画技術的に意味づけるという場合、「都市計画固有の観点とは何か」という点であった。これに答えるためには、わが国都市計画の既往理論は全く不十分であった。」P281。このことは広義の公衆衛生概念についてはもとより、「公衆衛生と風景」という奇異な組み合わせ概念の模索にも、いささかの勇気を与える。

3)衛生の語を近代に使用したのは、京都府の明石博高という説もあるとしているのは、小野芳朗『<清潔>の近代』(講談社選書メチエ、1997.3)p104。また、ゲズントハイツ・プレーゲが「単に健康保護という意味ではないことに彼は気付く。」p101。長与は帰国後、文部省医務局長になったが、欧米で見てきた広大な範囲の衛生行政を役人たちは理解できなかった。P102。「衛生」は『荘子』の「衛生之経」が出典であるが、「いささか哲学めいて、どうして予防医学、制度の衛生に結びつくのか、少々わかりにくい(p103)としている。こういう戸惑いは用語問題ではよく発生する。「衛生と風景」となれば、もっと理解されにくいが、そうした発想は原因なくして誘発されないとみたい。

4)竹内啓編『学問における価値と目的』(東京大学出版会、1980.11)p205。

5)1934.10、p2。


  西村授業のインセンティヴ

2004年6月2日

京都タワーとエッフェル塔

 濃密な西村講義は、学生のアンケートカードによる質問のいくつかを冒頭にコメントつきで紹介し、インセンティヴが配慮されている。

 質問:京都タワーは景観上問題にされてきましたが、京都に生まれ育ったため、そうは思いません。愛着を感じています。エッフェル塔も初めは大きな問題になりました。

 コメント:京都タワーはホテルの建物の上に立っているが、エッフェル塔の足元は公共広場で、しかもそれが主要な都市軸のひとつになっている点が違う。東京タワーは、いまだに足元はオープンスペースではない。タワーは空間のストック、活用にどれだけ貢献するかである。

 教授のコメントは鮮やかだった。慣れからの愛着が大きな視野からの価値判断を妨げる。最近はモノをつくることより、それをつくる合意形成に関心があり、卒業制作は小さなスケールのものが多いと指摘した。

 また別の学生の質問「歴史的町並み保全について、リーダーシップをとった人材による幸運な例だけではなく」に応えるまでもなく、反対論も失敗例も織り込むように努めている授業である。

 さらに別学生の「もっと若者にとって魅力のあるまちづくりを」の質問には、「人口激減の高齢社会にあっては、若者若者というより、高齢者が主流になってくる立場を視野に入れないといけない。」とアドバイスした。

 参考:「驚いたことに、従来の街の規模にまったくそぐわないはずのこの建築物が、建ってみれば大して場違いに見えなかった。気がつけば街のほうが変わって、今の京都には不愉快な大建築も違和感がない。」とシニカルにまちの変貌を嘆いたのは、アレックス・カー『犬と鬼』p170だった。

参考文献の積極提示

 濃密講義は、毎回濃密プリントと多数書籍の提示・回覧である。西村教授は手に持ち切れないほどの書籍を、配布プリントとともに教室へ搬入し、現物教育に努める熱意は尋常ではない。学生は触発されて、あとでそれらを図書館などで閲覧、または書店で購入して学習していく。

 たとえば、1994年3月都市計画局地域計画部公園緑地計画課発行の『東京都都市景観マスタープラン』が示されたあと、私はそれを蔵書にしていたので再読すると、以前読んだ折には理解が浅かった記述に、深い意味を吸収することができた。手元の『都市美ガイドライン』(東京都生活文化局コミュニティ文化部、1988.3)も再読した。以下は印象的だった箇所の一例。

 ・『東京都都市景観マスタープラン』p157:景観の「景」の文字には、光と影の両方の意味があります。良いところも悪いところも景観に現れるのです。都市景観は、都市に住むひとびとの生き方、都市活動や社会のあり方を反映します。健康状態が顔色に現れるように、都市景観は都市発展の正しさのバロメーターといえるでしょう。(資料編「東京景観宣言1993年11月17日 美しい景観をつくる都民会議」)

 ・『都市美ガイドライン』p8:今日の社会状況は、「ポスト・モダン」ともいわれ、いわゆる「脱近代化社会」への移行期に位置しているといわれています。が、こうした状況のなかで、都市美は極めて今日的な課題としてとらえることができるものと思われます。すなわち、整然とした近代的な美しい街並みを整備するのみではなく、そのまちにしかない真の個性と人間性に立った親しみのある都市を創り出して行くことが課題となっています。

(2004.5.31「都市保全計画」授業から。)


  都市計画と安全・安心学

2004年6月7日

 安全・安心学が東大先端科学技術センターで生まれつつある1)。「学」には客観性と論理性が条件である。その点、客観的ニュアンスのある「安全」の方は、すでに「安全工学」をはじめ、「何々安全学」として多様に受け入れられている。それに対して、主観的ニュアンスの「安心」は、学にはなじまないとして、学の蚊帳の外におかれてきた。安全は天下国家論に通じる権威があり、安心は宗教か家庭内に囲み込められ、慣習によって固定されてきた。安全は公人として論じ、安心は私人として語られる。

 その意味で、安全に安心をプラスした思考を「学」として構築することは、安心が学的にも家庭に入り、学も生きた学問になり、つまりは安心が全的に認知される意義は大きい。安全は手段で安心は目的である。安全は安心という心的状態に帰納して、本当の実効ということになる。

 その講演会が、「安全・安心学のススメ〜文理融合の課題〜」という演題2)で、2004年6月3日に同講堂で開催された。提唱者である御厨貴教授(日本政治史)は、講演の途中で「ある食品関係の重役から、企業として様々な安全を考えてきているが、自宅でいう安全と結びつかないといわれた。そこで初めて企業人と家庭人の矛盾を自覚し、両者を結ぶ安全・安心学を思い立った。」とコメントした。しかし、講演が進むほどに、この安全は「安全保障」の安全という国家的スケールのそれと分かった。これでは、家庭の素朴な安全・安心と相変わらず結ばれることがないのではなかろうかと感じたのは、生活視野からの思い入れが強い性急な受け取り方だったのであろうか。

 しかし、教授の専攻と体験を背景にした天下国家論の一展開としての国民的安全であり、安心といっても国民的安心であることの強調はいなめず、それに企業的安全・安心が加わってはいたものの、家庭の出番はなかった。それを意識したかのようなフロアからの質問には、「安全・安心の対象は広過ぎるので、今は科学技術という枠に限定している。」との答えだった。ちなみにリーフレットには、「安全・安心を実現する科学技術人材養成プロジェクト」および同じタイトルのオープンスクールの記載があった。

 そして、この人材はよくいわれる産・官・学に「報」を加え、さらにNPOとNGOがプラスされていたものの、やはり最も現実的な生活環境における家庭の「家」はなかった。

 この安全・安心学は、都市計画とまちづくりの関係についても考えさせるものがある。都市計画というと、お上の計画で、市民に強制されるものと実感されて、みんなのもの意識が育たなかった。都市政策プランナー田村明3)は書いている。

 「建築は市民にとっても、ごく身近な存在であり、お互いに都市の形を共同してつくってゆく納得したルールであるべきだろう。それが、市民や地域とは無縁の全国画一的な法律によって、上から統制するというものになってしまった。これでは都市計画はますます市民から遠い存在になってしまったのも、やむをえない結果だろう。」4)

 近年になって、都市計画は市民参加を含意した「まちづくり」というソフトな用語に言い換えられて、市民に近づいてきた。が、さらに市民参加から市民主体のまちづくりへの時代に応じたものになるために、安心も導入されないといけない。

 かつて高山英華は著書『私の都市工学』5)において、「日本の都市計画の始まりは防災、復興からきていて、今ではそれらに公害が加わったり、「生活環境」が加わったけどね。だけど安全っていうことを、やっぱりあんまり考えていないんです。」と指摘している。しかし、高山の語にしても安心は登場していない。ある辞典は都市計画について、「安全に、快適に、能率的に遂行するための総合的な街づくり計画」6)と説明している。都市計画において安全は最優先であり、根底であり、安心は渇望の人心である。それを御厨は感知して、大胆に安心を掲げたことは慧眼であり、勇断である。

 景観法にないものねだりはいけないが、同法の原点のひとつともいうべき神奈川県真鶴町の「美の条例」制定に尽力した弁護士で法政大学教授の五十嵐敬喜が、「私たちは、真鶴条例を全国自治体で繰り広げる以外に美しい町を作ることは出来ない、と覚悟すべきなのである。」7)と述べているが、住民は「美しい」とともに「安全な」を収斂した安心なまちづくり条例、つまり「美しく安心なまちづくり条例」を自治体で始めることを期待すべきであろう。そして、安心が法律用語になじむ時代を待望すべきであろう。このような希望が、安全・安心学という学問の骨格に導入されることで、とりわけ鼓舞されるのである。

(注)

1)2003年8月から文部科学省振興調整費がついた。

2)リーフレットには「今日の講演では、あくまでも文化系からの接近であるが、社会の諸問題に「安全安心」という補助線を引いたときに、世の中がどのように見えてくるかを語ることにしたい。おそらく、この課題は「安全安心学」としていずれは大きな体系をなすものと思われる。」とあった。なお「安全・安心学」「安全安心学」と表記が固まっていないのが目についたが、それは同学創造のカオスを思わせた。

3)1926年生まれ。東大工学部建築学科と法学部法律学科卒業。運輸省、日本生命を経て環境開発センターで都市計画等の立案に当たり、1968年から81年まで横浜市(技監・企画調整局長)にあって、アーバンデザインの都市づくりに大きな実績を残した。法政大学教授を経て、同名誉教授。市民運動にも積極的である。

4)『江戸東京まちづくり物語』(時事通信社、1992.3)p251。

5)東京大学出版会、1987.10。引用はp19-20。高山英華は1910年生まれ。東大工学部建築学科卒、第二工学部教授を経て、工学部教授時代に都市工学科を設立、学科主任を務めた。

6)『造園用語辞典』第二版(彰国社、1985.6)p372。

7)『ガバナンス』2004年6月号(ぎょうせい)の五十嵐敬喜「自治体は景観論争に歯止めを打てるか」p26。「美の条例」については、五十嵐著『美しい都市をつくる権利』(学芸出版社、2002.3)に詳しい。


  犬と鬼ケーススタディ

2004年6月9日

 「味もそっけもない効率一点張りのゴミゴミした眺めは見るのもつらく、トンネルに入るとほっとしたほどだ。」(アレックス・カー著『犬と鬼──知られざる日本の肖像』1))。この「ゴミゴミした眺め」は、広島から東京まで800キロの退屈な風景を指すカーの友人の言葉である。日本人は美に敏感で醜に鈍感であり、いったん醜化した風景には鈍感である。

 なかには、東海道新幹線の沿線風景を大変評価する人もいて、風景問題は難しいが、それはともかくとして、私の実感からいえば、東海道新幹線沿線ならずとも、「ゴミゴミした眺め」なら、それだけで小住宅伝統の日本を醜くするとはいえない。小粒美、その集団美も捨てがたい。不快感は「バラバラな眺め」に原因がありそうである。ゴミゴミ、チマチマでも高さ、軒下、色合い等そろえるものをそろえた町並みは、質素でも美しいではないか。

 それにしても、あれほど美しかった表日本の風景が消えていった東海道新幹線の沿線。2004年6月5日、関西へ旅した際、『犬と鬼』をたずさえて風景をチェックした。まずまずの風景は木曽三川(木曽、長良、揖斐川)から米原までで、それ以外の多くは美を感じないか、醜を感じるスプロール点在風景博覧会である。田植え期の水田がなければ悲惨だった。

 きわめつきは巨費の生贄「京都は死んだ」の京都駅であり、それに絶望した目には、新幹線から逃げるように入った支線のちょっとしたまちのたたずまいに安堵した。富士も前景の煙突都市に撹乱されるので、実景でなく理想像を心に描いてみる「富士真景」についてカーが記していることが参考になった。

 京都駅からJR京都線に乗ったのは、高槻市のJT生命誌研究館を見学に訪れるためだった。大阪市隣接の高槻市では、駅から研究館までわずか徒歩10分の距離内に、関西(大阪)情緒のまちが息づいていて立ち去りがたかった。都市計画、まちづくりはデザイン次第でわずかなエリアでも懐かしげなまちが容易にできる知恵を教えられた思いだった。

 京都に戻り、近鉄特急で奈良西大寺に向かった。美人日本画で著名な上村松園の元別荘で、今は愛鳥家である孫の淳之画伯が住まいし、1万坪の敷地に観察用に設けている野鳥園を見学した。奈良のスカイラインも美しかった。それを眺め、東海道新幹線は「死ん幹線」とつぶやいた。そして、景観法を機会に「東海道新幹線100景」の公募とその風景悉皆調査の日を望む気持ちになった。

「マンガ」と「巨大」ちゃちな京都タワーと鉄腕アトム、刑務所駅舎、祝祭万博、駅南口の風景遮断ビル

 『犬と鬼』の京都の記述はすさまじく「この街が「近代的」であることを世界に証明せねばならぬと考えた役人たちは、東京オリンピックが開かれた一九六四年、赤白二色の京都タワーを駅前に建設すると決めた。何十万もの住民が反対する請願書を出したにもかかわらず、プロジェクトは推進された。……九七年完成の新京都駅舎という大行進曲が鳴る。一五〇〇億円をかけた新しい駅は、建設ブームの日本でも屈指のスケールであり、京都タワー、京都ホテルなど足元にも及ばない。線路に沿って五〇〇メートルの幅で、巨大な灰色の軍艦ビルがのしかかる。戦後の京都の慣わしにしたがって、街の歴史を力強く否定し、世界に向かって、否定を大声で叫んでいる。」2)と指摘した。

 カーは、地元建築家が「倉庫か刑務所のようだ」と語ったとも書いた。烏丸通りを南北に貫通させる凱旋門型作品もなくはなかったが、京の歴史の片鱗すらない巨大工場風駅舎は、駅南口の無粋な風景遮断ビルと呼応し、障壁による京都分断を追認した。駅ビルは祝祭万博気取りもうかがえる。京都万博なら京都らしい都市美モニュメントにしてほしかった。

 西村幸夫は「京都タワーは京都タワーホテルの上に立っている。エッフェル塔の足元が公共広場で、しかも都市軸になっているのとは大きく違う」と評するが、そのことが改めて納得できた。

 ほっとする京都郊外住宅地(JR京都線車窓から)

関西(大阪)風 恵比寿様信仰を思わせる開発街、笑顔あふれる活力満点街、仇討の辻変則交差路界隈

奈良らしさ 古墳を思わせる神社の森、上村野鳥園の花鳥風月、なだらかなスカイライン

 
 補遺:「本末論」の連想

 東海道新幹線の車中では、東京府知事芳川顕正の「東京市区改正意見書」(1889年、エッフェル塔完成年)の本末論として知られている次のフレーズを思い返していた。

 「意フニ道路橋梁河川ハ本ナリ水道家屋下水ハ末ナリ。」

 しかし、これには続きの文章がある。

 「故ニ先ヅ其根本タル道路・橋梁及河川ノ設計ヲ定ムル時、他ハ自然容易ニ定ムルコトヲ得ベキ者トス。而シテ其下水・水道ノ如キハ既ニ計画ヲ定メ、其順序方法等ハ今マサニ上司ニ対シテ伺中ニ属セリ。是レ此案ニ載セザル所以ナリ。」

 この本末論は事業の順序を述べたもので、記述の如く水道は着実に実行されたからまだしも、家屋等は自然に容易に定まるとした楽観論のために、現在に至るまでスプロール化を払拭できず、それが根づいてしまった。東海道新幹線沿線の絶え間ないスプロールこそ、ケよりハレを思わせる表路線風景乱雑の実体である。クライアントや住民に任せておいてはスプロール化することを見据えて、芳川が都市計画に家屋等を強力具申していれば、縦割り行政の下でも相応に実効が上がったのではなかったか。以後自然容易に放任状態が続いたため、観光立国の今日においては、美愛好的国民性を疑わせる東海道新幹線沿線の風景は、美に鈍感な日本人養成に一役買うお墨つきを与え、国益にさえ影響しかねない。

 また『犬と鬼』では、テクノロジーは「物事を適切に管理する技術」と紹介している。そうであるならば、都市計画にはそれが発揮できなかった無念さがあろう。

(注)

1)講談社、2002.4、原著”Dogs and Demons”

2)『犬と鬼』p167,170から引用。


  日本の眺望景観見える・見る

2004年6月14日

 景観から風景という西村幸夫らの精力的提唱の影響が広がり、景観にかわって風景という語が多用されるようになってきた。景観と風景の語義の異同が截然と区別できないため、両者の混在が目立つものの、景観は客観的、風景は主観的、景観は操作でき、風景は成る、景観は視覚的、風景は心的、景観は無機的、風景は生命的といった方向の解釈による多用である。それだけに景観法は風景法の名称が望まれるが、法律名としてのいかめしさ、権威性が薄いためと、他の法律の「景観」用語使用との兼ね合い等の理由から「景観法」に決定したと思われる。景観法は画期的であるが、景観のみの規定により、景観から風景への潮流によどみが生まれないように念願したい。

 季刊『まちづくり』(学芸出版社)に拠って創刊号から「眺望景観のパースペクティブ」を連載している西村幸夫+眺望景観研究会は、同誌第3号(2004.6)誌上において、「都道府県庁所在都市調査 日本の眺望景観──東日本編」を発表した。23都道県にまたがり、320字ずつのコメントと図版(ほとんど写真)3枚のキャプションは、練り上げられて簡素化された述語の適用試論でもあった。限られた一定の字数によるコメントは、スペシャリスト集団だけが可能と評価できるシャープで的確な文章表現だった。ただし、一字一字血の一滴である貴重な字数のコラムにおいて、本文と写真説明が酷似している例があった。重複感が惜しい。その分、他のデータの書き込み、もしくは表現の工夫がほしかった。

 そして、担当者の記述の差によって、風景に二通りの見え方があることを理解した。「見える風景」と「見る風景」である。前者は見えるがままの風景を指し、後者は予備知識を加味して見えてくる風景を指す。いきおいスペシャリストの執筆による「日本の眺望景観」コメントであるから、表現の端々、行間、ときに顕在的アドバイスとして投入された知見は重く、それらが咀嚼されての風景鑑賞や風景対策が生まれることへの影響力は少なくない。「見える風景」は一般市民の風景感覚に立つことで、風景への親近感を強める意味で基本である。しかし、スペシャリストの執筆である以上、「見る風景」に導くデータの織り込みも期待されるのである。

 そこで、「日本の眺望景観」東日本編23都道県の本文と写真説明を含めた記述を、仮に「文章で読み解く眺望風景」として考察し、印象的あるいは風景問題の参考になるフレーズを抜粋した上で、その記述からの感想を「見える風景」「見る風景」の度合で記号化するとともに、自由記入の感想を添えたリストを試みた。

 ちなみに「文章で読み解く眺望風景」についていえば、風景学者で東京工大大学院教授(現名誉教授)の中村良夫が『風景学・実践篇』(中公新書、2001.5)において、「風景と言ってもすぐに視覚現象と速断はできない。言語現象の側面もある。前者を「見分けの風景」、後者を「言分けの風景」と呼ぼう。」(p9)としている論述は参考になる。

見える・見る日本の眺望景観(東日本編)

(見える風景は見えるがままの風景、見る風景は予備知識を加味して見えてくる風景。><=は印象の比較。)

札幌市 開拓都市の眺め

・創成川を軸線とする60間四方のグリッドを基調とした開拓都市である。その西側には、円山・大倉山を始めとした山並みが市街地の目前にそびえ、都心にいながらにして自然を生け捕ることができる。
・テレビ塔から西へ1.5キロ伸びる大通り公園に至ると、自らも木々豊かな公園という前景の中に生け捕られてしまうのである。

●見える風景<●見る風景:「生け捕る、られる」は景観ではなく生命のある風景にぴたりである。

青森市 「大きな」眺望

・大火と戦災により市街地は幾度かダメージを受け、残念ながら由緒ある眺望対象は数が少ない。しかし、八甲田連峰・東岳山地を始めとした東・南・西の三方にそびえる山並みへの通し景、津軽海峡へと出づる青森湾への展き景といった、市街地を四方から包む豊かな自然への「大きな」眺めは、今も昔も変わりようがないであろう。
・「外」から「内」への視点で、眺望が「大きく」とらえられていることがうかがえる。

●見える風景=●見る風景:「大きな」による一貫解説が魅力。しかし、と起承転結の転で景くっきり。

盛岡市 視点場の際立ち

・氷点下2度の雪舞う盛岡。訪れるのにこれほど不適切な日もない。
・山並みへの眺望領域が指定され、建築物の高さのガイドラインが定められている。
・与の字橋の他にも、岩手山・南昌山を望む開運橋等、公共的な視点場を持つことが盛岡の山並みへの眺望の大きな特徴を成している。

●見える風景<●見る風景:風景都市を描き出した。不適な日の景またよしという「転」がほしい。

仙台市 杜の都の並木道

・寺社の参道のように明確な眺望対象を持っているわけではないが、ちょっと先まで、ぶらぶらと歩いてみたくなる心地よい空間をオフィス街の中に作り出している。
・定禅寺通りの並木の作り出す絞り景。中央にはいくつかの彫刻が配置されているが、並木の作り出す焦点の先には明確な眺望による対象はない。

●見える風景<●見る風景:焦点対象のない風景づくりの達者ぶりを知っての散策は格別である。

秋田市 散りばめられた碁石

・小山の上に乗った公園が、市街地の碁盤の上にあたかも散りばめられた碁石のように置かれ、そこから秋田市街、そしてそれぞれの小山までを望むことができる。これらの小山の多くは、風致地区に指定されており、市民にも親しまれる大切な風景である。
・近年、国道7号線秋田南バイパスが完成した。旧雄物川を越える臨海大橋から市街地、そして太平山を俯瞰するというこの眺めは、秋田市の新たな都市眺望への「布石」となるだろうか。

●見える風景<●見る風景:碁石のたとえで風景の渋み、バイパス景の提示で未来まで楽しめる。

山形市 近代を語る通し景

・三島通庸は幅員九間の大通りを新たに開削し、その周囲に洋風建築からなる官庁街を建設するとともに、アイストップとなる正面に県庁舎を配し、通し景による西洋的な大景観を出現させた。
・(旧県庁舎文翔館背後の街区)市の景観条例に基づくまちづくり協定が結ばれ「建築物の高さは文翔館の背景に飛び出さない高さとする」旨が定められた。
・三島の近代化によって形作られた山形市の骨格は、市民の手によって継承され、根付いている。

●見える風景<●見る風景:近代都市づくりの歴史考察で、見る風景の学と楽しみが増える。

福島市 信夫山の存在感

・街路からの周囲の山並みへの眺望が、盆地固有の囲われた市街地形態を実感させる。
・阿武隈川に架かる橋梁からのダイナミックな眺望景観が、市街地と大自然とのつながりを色濃く映し出す。
・県庁通りから県庁舎への絞り景 戦後すぐ建てられた庁舎のモニュメント性は薄い。また、道路の中央には並木があり、安定した視点場がない。

●見える風景<●見る風景:いいことずくめでなく、道路中央並木等の指摘でかなり見る景になる。

水戸市 馬の背の眺望

・真っ直ぐに伸びる馬の背骨は、頭に茨城県三の丸庁舎と、屹立の尻尾に美術館のシンボルタワーを配置した、八〇〇m弱に及ぶ双方向の通し景だ。背中から左右を見やる。
・水色豊かな眺めが左右両方向に展開する。
・偕楽園は唯一入園無料で、視点場の公共性・開放性は高い。

●見える風景>●見る風景:馬の背の説明で台地都市の展望が、地形的メリットとして好感される。

宇都宮市 

・県庁舎から振り返ると、今度は宇都宮市役所が視線を捕らえる。
・栃木県庁舎への通し景 18階建ての新庁舎に変わる。現在の庁舎は曳家され保存される。
・県庁前通りから新県庁舎を望む 街に織りこまれた煉瓦色の彩りは、超高層の新県庁舎にも継承され、整えられた眺望前景がなくとも視線を惹きつける。
・幾度か角度を変えながら県庁へと至るケヤキ並木を歩けば、その屈曲点に絶妙に顔を出す榛名富士に出会う。

●見える風景<●見る風景:煉瓦色のファサード、曳家、屈曲点の絶妙風景の意識化また楽しい。

前橋市 煉瓦色の誘引力

・富士山に次ぐ広い裾野で名高い赤城山・榛名山への山あて、大河利根川の展き景、小河川の視軸など、都市の軸線は自然要素の影響を受けて曲げられ、多様な眺めが生まれている。
・国の登録文化財である旧県庁舎や群馬会館を始めとして、これらにデザイン的配慮を示す警察本部やタワーの新県庁舎、さらには刑務所の塀、糸のまちの記憶を残す煉瓦倉庫など、近代の彩りをここかしこに漂わせる「煉瓦色」の眺望対象に、さほど整えられた通しや絞りを持たなくとも、ついつい視線は誘われる。

●見える風景<●見る風景:さほどモノがなくても誘目性のある都市デザインを教えられる。

さいたま市 都市緑地の眺め

・東京に近接するさいたま市(旧浦和・大宮・与野)は、急速に市街化が進展したからであろうか、明確な構図を有する都市的な眺望景観を見つけるのは困難である。しかし、そうした市街化に抗してかろうじて保全されてきた良好な緑地に、優れた眺望景観を発見することができる。
・(氷川神社参道)この眺望景観は、70年前の風致地区指定以来の環境保全施策の産物でもある。
・埼玉県庁への通し景 視点場の不安定性、眺望対象の非シンボル性から認識しづらい一面もある。

●見える風景<●見る風景:急速市街化ゆえの難点を示し、「しかし」「抗して」の転で引き込む。

千葉市 海だった視点場たち

・工業化の進展と共に遠浅の海は埋め立てられ、自然海浜はなくなった。水平線に替わり、現在の臨港部からは、石油化学基地や鉄鋼業の工場等を望む現代生活の象徴的な展き景が得られる。視点場においては安定度の高い砂浜が復元されているが、自然への影響をふと考えてしまう。
・臨海プロムナードは約900mほどの並木道であり、そこからは前景に納まる樹木を越えてポートタワーがアイストップとして眼に留まる。

●見える風景<●見る風景:自然海浜消滅、反省に立つ砂浜復元について冴えた文明時評的タッチ。

東京都区部 地形・歴史・眺望

・ローマと同様、七つの丘(陣内秀信)。これらの存在は、眺望の形成に極めて重要な要素である。
・東大安田講堂への絞り景も、裏手が本郷台地の下り斜面であることが近年まで後景の無蓋性を担保してきた一要因だ。
・国会議事堂への絞り景 我が国を代表する眺望景観も現在過渡期にあるといえる。
・この都市では、眺望景観の保全と創造は、地形や歴史への尊重と表裏一体であり、その施策化が必要な段階にあるのである。

●見える風景<●見る風景:後景無蓋性の鋭い指摘。安田講堂は背後に屹立の理学系ビルで死んだ。

横浜市 眺望をデザインする

・各所に近代建築が残されているが、それらを焦点とした眺望を発見することは意外と困難であった。日本大通りにみられるように、街並み形成型なのだ。一方で、港を核とした眺望は秀逸である。
・近代建築が並ぶ日本大通リ。整備計画によると、焦点にあたる敷地は将来公園化され、海への見通しが確保されるようである。
・視点場として優れた国際客船ターミナル大桟橋は、そのデザイン性の高さから、眺望対象にもなり得る。

●見える風景=●見る風景:見える、見る風景ともに魅力のあるヨコハマを未来の担保まで紹介。

新潟市 水都のダイナミズム

・日本海と市街地との間に風除けとして位置する尾根筋から市街地に向けて下る幾つもの小さな坂が、新潟の風景に彩りを添える。
・市街地に時折顔を出す工場の煙突、そして産業転換後の再開発地区への眺望は、新たな姿を模索し続ける水都の軌跡である。
・信濃川の河岸は、やすらぎ堤として広く親しまれている。隣接する公共施設も川への眺望を意識してつくられている。一方で、低利用の大街区も多く、今後乱開発の危険性も高い。

●見える風景=●見る風景:小さな坂と煙突の成す景、低利用地を含め見る風景考察は納得できる。

富山市 建築が眺望に成る

・復元ではない。時に批判の対象となる模擬天守閣だ。大手通りのアイストップとなる位置に史上初めて天守閣が登場したのだ。しかし、皆、それを愛しく眺めた。
・天守、市庁舎を始め良くも悪くも眺望を誘引する建築が多い。
・幅員が変化していく曲線の歩道と樹木の茂り具合で見え隠れする眺望である。
・歩道橋は「立山をあおぐ特等席」で、優れた視点場であるが、その背後にとっては、障害物となる可能性性もある。

●見える風景=●見る風景:明暗、両面性を折り畳んで解説していくのは、公平で説得性がある。

金沢市 町並みを味わう

・眺めるのは見慣れた市街地で、それ自体が格別美しいというわけではない。やはり金沢では歴史的町並みを眺望したい。
・瓦の色と傾斜の揃う屋根並みは、「違いを楽しむ人」に一段上の展き景の美味を教えてくれる。
・何処にでもあるようでそうはない眺望景観。屋根並みの保全も考えたい。
・兼六園展望台からの展き景 「眺望」は、兼六園の名称の由来の六勝のひとつ。
・(伝建地区)後景にはみ出しがある。伝建地区のバッファーゾーンにおける規制が望まれる。

●見える風景<●見る風景:どこにでもありそうでない親しい屋根並み保全も書き込まれている。

福井市 信仰と招魂の眺め

・神仏が編集した眺望が幾つか織り込まれている。例えば、本願寺福井別院本堂の大屋根。参道から半身逸れつつも、道行く人の眼差しを確かに捉えている。
・(護国神社)まちなかまで伸びた参道に立てば、鳥居が絞りを利かせる眺望が現れる。隣接する遊び場から漏れてくる幼児たちの笑い声は、この通し景を脱政治化させるに十分ではないだろうか。
・広幅員街路の中央に立つことのできる貴重な場が路面電車の駅。架線と線路敷が視線を絞る。

●見える風景<●見る風景:脱政治プチナショナリズム的風景論を感じた。テーマ今少し拡大を。

甲府市 富岳秀麗

・なんと言っても秀逸なのが、こうした山岳の更に後ろにそびえる富士山への眺望である。
・しかし、これらの優れた眺望に対する積極的な保全施策が執られていないのは、異邦人にとってはいささか不可解だ。高層建築物が建つ可能性が低いからなのか。はたまたどこからでも山々を望めるという安心感からなのだろうか。
・前景の交通標識やホテルの屋外広告物が若干気になるが、南アルプスの名峰甲斐駒ケ岳(2967m)を正面に見ることができる。

●見える風景<●見る風景:異邦人の語はなくもがなであるが、アドバイスは貴重である。

長野市 都市のシルエット

・親しみのある旭山への通し景は看板、電波塔の百花繚乱に押され気味だ。
・しかし、この街の眺望探索はまだ終わりではない。更に善光寺の裏手、雲上寺に向かって裏参道を進んでいった先、地附山の頂で振り返ると雄大な展き景が眼前に広がる。
・善光寺を挟んで山脈、中高層ビル群と低層住宅地のスカイラインが並行に走る。善光寺の南と北で、用途・指定容積を異にした明確な土地利用計画・規制の産物である。都市計画は、展望に値する美しい都市のシルエットを生み出す力を持っている。

●見える風景>●見る風景:スカイライン都市の魅力を美しいシルエット都市として提示した。

岐阜市 天下布武の眺め

・アイストップである金華山によって、一度目線は水平にとどまるが、仰ぎ見ると山頂付近に岐阜城が見える。この二重性が眺望の特徴であろう。
・展望台からは360°の壮大なパノラマを望むことができる。夏季限定ではあるが、夜間もこの展望を楽しむことができ、岐阜城を訪れた人に美しい眺めを与えてくれる。
・信長も眺めたであろうこれらの眺望は、後世へ伝えるべく様々な努力によって支えられている。

●見える風景=●見る風景:眺望の二重性、ひいては眺望の複合性の知的鑑賞を教えられる。

静岡市 現代の通し景

・伝統的な「富士見」の景勝地を多数有する静岡市。
・旧市庁舎も県庁舎を拝むようにして建った。
・典型的に近代然とした県庁舎への通し景は現存しているが、隣に並行して生まれた後発の通し景=青葉通りに存在感を奪われている。
・春には並木が萌え、絞り景が生まれる。通り自体が公園としてつくり込まれているが、中央部分には障害となるものは少なく、見通しは十分に確保されている。

●見える風景<●見る風景:後発の通し景に人々の関心が移っていく移ろいの相が目に浮かぶ。

名古屋市 広幅員街路の眺め

・直線を基本とする街路による、スケールの大きな都市的な眺望景観である。
・(久屋大通り)その安定した視点場からの通し景はまさにブールバール固有の眺めである。
・(同)ケヤキ並木の背後から、沿道の建物が一部、顔を覗かせている。
・桜通りが国際センタービル付近で微妙に屈折していることで、同ビルをアイストップとする眺望景観が形成されている。

●見える風景<●見る風景:至らない名古屋も教えてほしい。たとえば名古屋駅西口の閉塞風景。


  景観法の理念と工学の哲学

2004年6月16日

 6月11日、景観法が成立した。名称三字の法律は基本法的語感があり、画期的立法の期待を担って成立に至らしめた国民の良識、わけても都市工学系スペシャリストのバックアップが評価される。とくに東大の都市工学では、教授西村幸夫が学部、大学院講義を通じて、再三にわたり詳細な法案解説を行うとともに、衆議院国土交通委員会審議に参考人として出席して前向きな問題点を述べる一方、西村・北沢研究室(都市デザイン研究室)挙げて日本全国の眺望景観リストの作成に着手している。この過程で国会議事堂を脅かす議員会館高層化計画の詳細チェックを公表し、世論を喚起した。しかもその講義は、受講生中から景観法の指導的担当者が生まれることを念頭において、景観法の理念と景観認定制度等の手続きまで繰り返し解説された。景観法には重要な先進的規定が幾つもあるが、その第一は基本理念が明記されたことである。

 「美しく風格のある国土の形成と潤いのある豊かな生活環境の創造に不可欠なものであることにかんがみ、国民共通の資産として、現在及び将来の国民がその恵沢を享受できるよう、その整備及び保全が図られなければならない。」(第2条第1項)

 ここで2点に注目したい。それは「国民共通の資産」としたことで、国民の財産権とのからみにおいて規制の根拠が生まれたことである。次いで「将来の国民」のことを考えて、未来に対する予防施策をとりうるということである。都市計画法、古都法をはじめ、従来の重要法案は「公共の福祉」をうたったが、景観法が「国民共通の財産」という一歩踏み込んだ規定を採用した意義は大きい。なお、「恵沢」については、他の法律にも使われている常用語で、問題はない。

 ところで景観法の技術的サイド担当者の多くは、実務の性格からみて工学出身者が想定される。従ってそうした担当者に期待されるのは、スペシャリストとしての景観・風景観、ひいては人間観、世界観である。東大都市工学出身者の場合、操作する景観から、成る風景への教育を受けて研究を重ねているため、法にもとづく景観の整備保全もそれが操作を伴う場合は、とりわけ慎重に臨むと思われる。文言は景観とあっても、可及的に「風景」として対応するであろうからである。法にいう「良好な景観」とは、「美しい風景」と反射的に読み替えて作業できる教養が培われているのである。

 ここで考えておきたいのは、美しい都市づくりの技術を担ったのも工学人なら、乱開発に手を貸したのも工学人だということである。都市美醜の両刃の剣は、工学人の功罪につながる。そうした工学人の中から操作の行き過ぎに警鐘を鳴らすスペシャリストの活動が台頭した。このことは、それが景観法成立に漕ぎつけた実績だけでなく、科学的と信じ、あるいは科学的と称してなされる自然破壊に対する抑止力となることへの、国民の期待を高めることになったことを物語る。その意味で今改めて、19世紀に形成された工作人間観1)を考えてみるのも自然なことであろう。

 19世紀の人類は科学と機械力で自然を征服したが、それは工作的人間homo faber2)としての人間観の形成と連動した。人間の人間たる本性は、工作・政策・操作・構成・生産・労働・行動・実践等の活動性にあるという人間観である。これが工学哲学のうねりを生み、人間中心主義思想が高揚した。しかし、そのことで行き過ぎたために人間が神を見失い、ギリシア的調和感覚を失った。ということは、知性と感情が乖離し、人間性の喪失を生むに至ったということである。そうした西欧思想の行き詰まりを超克するには、東洋思想等をもってする潮流もあり、今後は景観法の名称はそのままにして、成る風景を養う施策に力を入れていくことに希望を託したい。

 ともあれ「工学の基本は、働きかける対象や処理する相手を正確に理解したうえで、作り出したい結果に向けてそれらを加工したり組み立てたりすること」と、横浜国立大学助教授高見沢実が著書『初学者のための都市工学入門』3)で述べているのは、「働きかける対象や処理する相手の正確理解」を前提として初めて加工、組み立て、つまり操作が容認される厳しい工学倫理を意味している点で参考になる。

 都市工学は土木、建築、造園等が総合して成立した。高見沢によれば4)、都市工学は、都市計画と基本的には同じであり、都市の拡大制御、都市の再編促進、防災・復興、歴史環境の育成、自然との共生等がその学問領域である。しかも工学技術だけではなく、経済や社会の様々な要素と強くかかわっているというだけに、景観法については都市工学を学んだ工学人の活躍がとくに期待されるのである。

 工学の哲学というと、建築哲学ということがしばしばいわれてきた。東大都市工学科の生みの親である高山英華は、「本来は、そういう立場の人がまず入った学生に徹底的に建築哲学をやんなきゃいけないと思うんだよ。それが、書物で代行しうると思うことが、もう大体においてアウトだね。」とか、「製図室でワーワーワーワーやっている時が、要するに建築哲学を議論してる場なんだよ。」と気さくに語っている5)。同書は断片的高山言語録であるため、建築哲学の内容は語られていないが、そうした建築哲学を含め、19世紀的工作人間観を超克した新しい工学人間観(それは哲学でもある)が、景観法を契機に形成が加速されてほしいのである。

 景観法の画期的規定としては、その他工学人が偏重しがちな数値では対処できない対象である景観について「認定」制度の導入、建築物の規制等に加えて棚田や里山の保全も一体的に対応できる道、住民参加を前進させた景観整備機構制度、景観計画地区および景観地区の中からの重要文化的景観選定支援、さらに連座的処罰規定や相続税の減免等がある。

 本論の結びは、「美しい国づくり政策大綱」の次の一節を以って代えたい。よくぞここまで政府が書き切ったといえる公文書である。

 「社会資本はある程度量的には充足されたが、我が国土は、国民一人一人にとって、本当に魅力あるものとなったであろうか?都市には電線がはりめぐらされ、緑が少なく、家々はブロック塀で囲まれ、ビルの高さは不揃いであり、看板、標識が雑然と立ち並び、美しさとはぼど遠い風景となっている。四季折々に美しい変化を見せる我が国の自然に較べて、都市や田園、海岸における人工景観は著しく見劣りがする。」

 そこには続いて、「国土交通省は、この国を魅力ある国にするために、まず、自らが襟を正し、その上で官民挙げての取り組みのきっかけを作るよう努力すべきと認識するに至った。」という、粛然とした異例の文言が刻まれたのである。

(注)

1)山崎正一+市川浩編『現代哲学事典』(講談社、1970.4)p448-449、484-485に詳しい。

2)ラテン語。これに対する人間観として、ホイジンガーの「遊戯人間homo ludens」もあった。

3)鹿島出版会、2002.2、p26。高見沢実は東大工学部都市工学科卒。同科講師、助教授を経て現在の横浜国立大学工学部建設学科助教授。

4)『初学者のための都市工学』p58。

5)『私の都市工学』(東京大学出版会、1987.10)、引用はp24、27-28。


  ポスト景観法

2004年6月21日

 ポストという語は、ラストサマーというときに似た感慨を伴う。哀愁と同時に未来への意欲を覚える。西村幸夫大学院授業「都市設計特論」は、6月16日、「このあとは鳥海都立大専任講師のフランスの風景計画講義2回をもって夏学期を終了する。」と告げられたあと、「ポスト景観法の展望」のテーマで息をのむ講義があった。17項目に上る「都市計画全般にわたる課題」の問題提起があり、それぞれの解決策を「若い君たちの発想に待つ」とほとばしるように語りかけられた言葉は厳粛であった。景観法は6月11日に成立した。半年後に施行される。次いで、施行上およびそれを超える問題点が堰を切ったようにほとばしったのである。

 「私たちの年代ではこのように問題を指摘することはできても、その解決策を考えることは難しい。若い君たちの発想に期待したい。」

 教授はこの言を繰り返し、次世代の教え子たちの知を刺激した。いつもは多いプリントが、この日は1枚のみだった。それだけ万感が込められていた。列記された「都市計画全般にわたる課題」のうち、いくつかを記録しておく。

 プロジェクトとコントロールの先に何があるか。

 マスタープランと規制に頼る20世紀的な計画手法ではないのか。

 生活像を前提として都市像を描くような計画は可能か。

 プロセスかアウトプットか。

 合意形成論を超えて。

 新しいコモンズ論へ。

 科学としての都市計画の確立は可能か。

 疾風のごとく怒涛のごとく説き続けてきた講義の最後を、「都市計画が目標とすべきもの」として問い直したところに、誠実な凄みがあった。各項とも考えれば考えるほど重い問題で、若い大学院生に対する信頼がうかがえた。

 考えてみれば、景観法の発想は、モダニズムによる「統一性の喪失」を超克する動きとしてのポストモダンに似た状況ではなかったか。統一的であった風景が分析的、操作的景観に道を譲り、それが行き過ぎたために顕在化した人間性と地球環境の空洞化を修復せざるをえなくなったからである。かつては風景の時代であった。やがてそれは科学技術の進展とともに、「ポスト風景」として景観の時代に移った。そして、今「景観」法という名称ではあっても、実質「脱景観」または「ポスト景観」としてのネオ風景時代を予感させる。

 この景観法を待ち望んだ声は、その講義があった夜、ある女性色彩専門家1)から配信された『いろの日ニュース』の記事でも分かる。毎月16日を「いろの日」として発行しているもので、景観法の認定対象「形態・色彩・意匠」のうち色彩についての感懐だった。
「まちの色彩アメニティを支えてくれそうな法律景観法が制定されました。この無残、無法な日本の景観に法律が色も制限するというのは画期的なこと。一方、施主の好みに委ねてきた建物の色を、環境配慮の意識をもって、どう維持、定着させるかという課題もありましょう。その意味で色の公共性の難しさがあるのです。必要なのは、環境の色彩教育と土地への愛着。欧州で美しい景観を維持できるのも、一人一人がそれを熟知し、誇りに思うからこそです。例えば、江戸時代の風景画に描かれた富士山。その姿が、どこからも見えるようにと軒高を制限してきた江戸人の誇りと富士への敬い。色においても自然や風土、地域性を愛でた尺度が望まれます。そう考えると、富士山がゴミだらけなのは身近に望めず愛情を向けられなくなった結果かも?マンションが視界を妨げる都会。色の前にまず、高さの規制緩和をやめて欲しいですよね。」

(注)

1)葛西紀巳子。アメニティ&カラープランナー、巨F彩環境計画室代表、新潟短期大学非常勤講師、国交省高齢社会における公共空間の色彩計画調査委員会副座長。著書『くらしの色彩物語─住・環境・色彩アメニティ』(フロムライフ、1998.9)。私はその一委員である。


  粛然講義と研究室会議

2004年6月28日

 私と、そしてともに机を並べている学生との年齢差に、松尾芭蕉の生涯分、夏目漱石の一生分もの時間、つまり半世紀が透明風船のように囲い込まれている。この透明知的コモンを通して、粛然とした知の教官による学生群と老聴講生の学習風景が刻まれた東大2004年度夏学期、「景観を超えるもの、それは風景」について学んだことは大きかった。そして今や「風景を超えるもの」をその師から学びつつある。アメニティが環境を超える思想であるように、風景を超えるものは何か。その一例は芭蕉が舟下りした最上川を前に司馬遼太郎が看破した『羽州街道』の言葉1)に発見される。

 「そのすがたは風景というようなものではなく、人格というほかない大きな気魄を感じさせる。」

 それにしても、これに近い感覚が体を突き抜けたのは、漱石の孫夏目房之介がロンドンの漱石の元下宿を訪ねたとき、「何かを訴えられるような、忘れていたとてもたいせつなものに出会ったような気分だった。」(『漱石の孫夏目房之介』(実業之日本社、2003.4、p10)というのに似た、何か人格を思う情念によって胸が突き上げられたことだった。それが西村教授の人格だったことは、6月16日の大学院講義で「これで私の夏学期の講義は終わりです。」と告げられた瞬間の実感だったことから、まぎれもない事実である。漱石のロンドン留学は、アメニティが法的に登場した1909年法の9年前だった。法律用語はそれ以前に社会で使われていた実態の追認であることが多いから、アメニティという言葉は、漱石留学期に都市計画領域で使われていたことも考えられる。生活語としては、15世紀には使われていた。

 かけがえのない西村情熱・濃縮・総合講義は、対象の4年生の大方が卒業に必要な単位を取得ずみであり、多くが就職活動中であるにもかかわらず、いつも40人は出席してほぼ満席だったということは、この授業の魅力以外の何物でもない。授業前も全体的に静かであるが、親しい友だち仲間で弾んでいる雑談も、授業開始と同時にぴたりと止まり、最後まで私語がほとんで聞かれないのは、これもまた教官と授業の魅力であろう。

 西村研究室会議に参加を認められた私にとっては、そこもまた粛然とした学びの場であった。先年、東京工大大学院中村良夫研究室会議を見学したとき、卒論、修論の中間発表があり、それへのアドバイスが行われた。中村教授から私にも、学生たちの卒論の構想について意見を求められた。後日、ひとりの学生が中村教授にいわれたといって、卒論のアドバイスを求めに来訪したとき、研究室というものの厳しい熱意を感じたことを都市デザイン研究室会議の途中で思い出し、それにも増して粛然とした学問の場にいることを覚醒して、思わず襟を正したのであった。

 会議では、都市デザイン研究室の学徒が研究の中間発表をし、息を殺して教官や研究室メンバーからじっくりアドバイスを受ける厳粛そのものの研鑽場であった。そこでは、私語という語は死語であった。個が個に賭けるしかない学問の厳しさを共同で教えていく武士道のような道場。その道場は私語が辞書にない世界であった。眼前で厳格な指摘や示唆を込めたアドバイスが飛び交っていながら、透徹した静寂さを感ずる空気は、「足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った瓶のごとくであり、賢者は水の満ちた池のごとくである。」という仏陀「スッタニパーダ」のことばを思い起こさせた。

 科学は、本当かどうかをいうのであって、美しいかどうかとか、善とか悪とかはいえないものとされてきた。ところがそれが今、美しさをいえる科学を先端的に生み出している大きな拠点が、都市デザイン研究室であると思った。

 学部と大学院の西村講義のある毎週月水2回、授業の刺激を受けては、突き動かされるように毎回衝動的に書いては、次の授業の際に教授に提出していた小論。英語ではエッセイであるが、日本語では随筆と誤解されるので、小論と書いた。論文を書き続けてきた若い俊才たちにまじって浅学で学を志す以上、随筆風に書く気はしなかった。困難でも稚拙でも努めて論文風にチャレンジしようと思い立った。授業中にノートを取りまくりながら、原則として講義が終わるまでに何を書こうかと発想し、その足で学内の総合図書館へ急ぎ、心当たりの図書を借りて帰路につく。さらに必要に応じて、新宿の紀伊国屋書店に寄って購入すべき本を購入またはネット注文し、翌日は地元の図書館で補強して書き上げる。

 そして、次の学部か大学院授業の際、教授に手渡した。月曜の学部授業の翌々日が大学院授業であったから、その場合は中1日しかなく、出典の引用ページも記載する注記はその確認に追われ通しだった。しかもそれは白内障の目には厳しい細字作業のため、当日滑り込むようにパソコンで書き上げたものを、授業に遅れまいとして、赤門から校舎まで息を切らせて駆けたことが再三あった。貴重な生きた教授の言葉を書き漏らさないためには、遅刻も欠席も許されなかった。視力と聴力の条件を考えて、必ず前列に着席した。

 とはいえ、講義の要約ではなく、オリジナリティの発想がポイントである。そのために発想が浮かばないときは苦吟した。それでも、いつも制限時間ぎりぎりに間に合ったのは、ジャーナリストの経験がものをいったかもしれない。半面、そうした状況での発想は、いい意味で文系から理系への問題提起になり、文理シナジーの標になったとしても、理系の人にとって青臭い腑に落ちない論旨ととられがちだったのではなかろうか。

 「歴史を守れ、海外に学べ」と繰り返し説く西村教授は、自身の大学院講義を割いて、オーストリア、イギリス、イタリア、フランス都市計画研究の他大学教授陣を招き、風景と当該国都市計画の授業を提供した配慮もそこにある。フランス編鳥海東京都立大学専任講師は、「ボージュ広場がフランスの都市計画の始まりといわれる。」と述べた。私がマルロー法への関心から3度も訪れたそこが、かの国の都市計画発祥の地とされていることを専門学者から聞いて得心した。

 2003年5月にはボージュ広場の脇に宿泊した。パリ第一大学で開かれたオギュスタン・ベルク教授主宰のパリ3大学院2)年次セミナーにAMR3)が招かれ、日仏双方で「風景とアメニティ」の研究発表を行ったあと、ベルク教授に国立社会科学高等研究院へ案内された。鳥海講師がベルク教授に師事し、そこで都市学博士になったところである。

 西村授業と研究室は、世界眺望の視点場であり、風景計画を軸とする世界都市計画の視点場である。世界遺産の視点場であり、歴史的世界精神の情熱的視点場である。『水の神ナーガ アジアの水辺空間と文化』4)から『日本の風景計画 都市の景観コントロール 到達点と将来展望』5)までの踵を接する名訳・編著者西村幸夫による陶冶の水辺である。

 「すべての学者は情熱家である。」(ポアンカレ6))。

(注)

1)『羽州街道・佐渡のみち 街道をゆく10』(朝日文庫、1983.1)p71。

2)ヴィレット建築大学、パリ第4大学ソルボンヌ校両大学院と社会科学高等研究院(大学院大学)。

3)アメニティが想定される全分野の研究・実践を目的として、1985年「アメニティ・ミーティング・ルーム」として発足したアメニティ総合研究・実践ボランティア団体。88年から発展的にイニシアルのAMRを正式名称としている。内外の学者、専門家によるプロフェッサー制度を持つ。外国人ではベルク教授がその代表である。活動は全国だけでなく、中国、韓国、英国、フランス、メキシコ、キューバに及んでいる。内外のアメニティ功労者に日本アメニティ賞を贈呈している。98年には、日本アメニティ研究所を立ち上げた。パリでの研究発表は、会長の私が「芭蕉の風景を貫くもの─ベルク・キーワードにかかる試論」、西村研の寺田弘が「神楽坂の路地:東京の風景とアメニティ」を発表した。

4)バンコク生まれの建築家Sumet Jumsaiスメート・ジュムサイ著、タイ工科大学助教授西村幸夫訳、鹿島出版会、1992.2。ナーガは龍と漢訳されるが、もっぱら水生の創造物。アジアには水を中心とした文明が普遍的に存在してきたことを論証し、陸地中心のヨーロッパ文明観の一面性に訂正を迫った本である。

5)西村幸夫+町並み研究会編著、学芸出版社、2003.6。

6)Henri Poincare(1849-1912)。フランスの数学者、物理学者、鉱山技師をしたのちパリ大学教授。通俗的な科学論文も卓抜しているといわれる。


  学ぶ世界の都市計画

2004年7月5日

 西村授業の主軸は「歴史に学べ」と「海外に学べ」ということだった。双方は並列でなく、世界の近現代歴史空間を地に、日本の歴史的空間の保全を図として保全することを意味した。その総合は、そもそもが総合表象である「風景」(脱景観)を見据えた「風景計画」を軸とした都市計画志向というのが、西村幸夫の哲学である。わが国都市計画における袋小路やマンネリズムを打破するには、歴史の原点に立ち戻って再考するとともに、いかに創意をめぐらしても同じ風土と習慣の土壌ではアイデアが限られるため、そこは海外の事例を学んで、吸収すべきは吸収すべきであるというのが、西村持論である。

 学部と大学院の講義を通じて鮮明に浮かび上がってきたことはいくつもあるが、「歴史に学べ」「海外に学べ」を説く知のプランとして、西村には年来温めてきた秘策があった。ひとつは、東大都市工の学生時代、無節操なスクラップ・アンド・ビルドがすさまじく、古いものは悪であり、邪魔者であるとして破壊されていく現実を目にして、何かが違うと心に叫んだことが、30年の時を経て今、「都市保全計画」という科目をこの母校で問うことができたのである。他大学では「都市計画」とひとくくりの科目でしかないところを、規模の大きい東大であればこそ、都市計画講座に「都市保全計画」科目が独立して発足できたのである。

 日本の歴史的環境まちづくりのバックボーンとするための、西村風景計画論が矢継ぎ早の出版において世に問われる一方で、同僚や後輩や教え子の都市計画学者が、主要国の都市計画研究専門家になっていったことは、西村幸夫にとって満足すべき軌跡であった。このように国別詳細講義ができる水準に達した学者グループをして、西村授業を場にした招聘講義に立たせたことは、東大としてもプライドあるエピソードであった。「都市保全計画」科目と国別都市計画学者の揃い踏みリレー講義の実現は、二十一世紀初頭における西村幸夫の正夢であり社会貢献であったのである。それを裏書きするには、情熱・濃縮・総合講義の中でもそこに言が及ぶときの、ひときわ力を込めた話し方に見ることができた。

 西村は「都市設計特論」において、英米の風景計画文脈的都市計画と、工科大学助教授を務めていたタイ国等の都市計画に通暁しているのを基盤に、自ら「欧米の風景計画概論」(4.21)「アメリカの風景計画」(4.28)「イギリスの風景計画」(5.12)を講じた上に、東京電機大学教授西山康雄の「イギリスのアーバンデザイン」(5.19)で英国を補強し、そのあと、佐賀大学教授三島伸雄の「ドイツ・オーストリアの風景計画」(5.26)、千葉大学助教授宮脇勝の「イタリアの風景計画」(5.26)に続いて、東京都立大学専任講師鳥海基樹の「フランスの都市計画」講義(6.26、6.30)をもって上がりとしたのであった。

 これほどの各国都市計画専門学者による連続授業は、都市美運動の源流になった1893年シカゴ万博のホワイトシティを思い起こさせた。白亜の壁や白地の大地が吸い込む如く、世界の都市づくり、まちづくりの英知をさながら西村万博を観覧するようにして勉強できたのは、直接には壮観な「都市設計特論」であり、そのエッセンスが注ぎ込まれた高質の「都市保全計画」授業のおかげであった。

 ところで、鳥海講義の正式タイトルは「モニュメント保存から地域環境制御へ─フランスに於ける歴史的環境保全の展開─」だった。刊行されたばかりの鳥海著『オーダー・メイドの街づくり─パリの保全的刷新型「界隈プラン」』1)を都市デザイン研究室で購入し、それを下読みして受講したので、ノートをかなり合点しながら取ることができた。予習には、『オーダー・メイドの街づくり』および西村幸夫+町並み研究会編著『都市の風景計画 欧米の景観コントロール 手法と実際』2)の鳥海稿「フランス歴史的環境の保全と風景計画」、さらに高橋伸夫著『フランスの都市』3)とハワード・サールマン著・小沢明訳『パリ大改造─オースマンの業績─』4)を読んでいった。鳥海の「フランス歴史的環境の保全と風景計画」についてはコピーが配布され、学生の便が図られた。この配慮は他国の都市計画講義でも各講師の『都市の風景計画 欧米の景観コントロール 手法と実際』所載論考のプリントが配布された。

 ベルク教授のもとで都市学博士の学位を取得している鳥海講師の講義終了後、『オーダー・メイドの街づくり』にサインをもらった。そのとき分かったことは、私がベルク教授から鳥海博士のことをパリで聞いてきたのと同様に、鳥海博士は私のことパリでベルク教授から聞いてきたということだった。

(注)

1)学芸出版社、2004.4。

2)学芸出版社、2000.2。

3)二宮書店、1987.4。

4)米国カーネギー・メロン大学Howard Salman著、井上書店、1983.5。これまで否定的にいわれることの多かったパリの代表的アパルトマンにおける機能の混在、華麗な大通りとその裏側のひどい乱雑さを、むしろ都市のアメニティの原点として再評価した図書。


  都市保全まちづくりの実践

2004年7月13日

 7月5日の都市保全計画講義は、様子が違っていた。毎回数ページに及ぶ講義要目と参考プリントが配られるのが、「日本における歴史的環境保全の歴史(補足)」1ページのみだった。それは岐阜県飛騨古川町1)の30年に及ぶまちづくりの経緯が主体であった。1986年、西村幸夫が助手時代からかかわりつづけている都市保全まちづくりの実際技法事例である。そのまちづくり理念・技法をひとことでいえば、「西村流歴史的環境保全まちづくり」である。それは長年にわたる飛騨古川の実践と成果によって裏打ちされている。

 「実践は専門家の責務である。助手時代からオホーツクから沖縄まで、20以上の歴史的環境まちづくりに参加してきた。とくに86年から参加した飛騨古川は、1年に30日も滞在したりして実地を体験してきた。当初からグループで徹底した調査を続け、全国でも珍しい軒下の小腕に施された各大工の装飾『雲』2)の伝統を見つけ、それを克明に採集し、まちの顔にしていった。雲を含む調査活動は、早くも翌87年に調査報告書になった。」

 そう前置きして西村教授がかざして開いた本は、『飛騨古川町並みのまちづくり』3)で、開かれたページは「雲総覧図」だった。冒頭に調査顧問西山卯三(京大名誉教授)、調査委員西村幸夫らのリストが掲載されている。

 その本のことを思い出していると、突然教室の照明が落とされ、最近台湾で放映された台湾公共電視監視の80分番組『古川町物語』(飛騨古川まちづくり物語)が、中国語のナレーションと字幕のまま上映された。肩書きが「東京大学工学系都市保存」とある西村教授の日本語による現場解説と、「城市的遠見」「故郷造営大奨」「木匠的故郷」「不用鉄釘」「飛騨的工匠」等の漢字に誘導されて、都市保全計画の実際がビジュアルに提示された。上映が終わって教室に点灯されたところで、教授は感慨を込めて宣した。

 「これでこの講義を終わります。」

 あっという間の前期だけで終わったことに茫然とした。そして、通年講義と思い込んでいたために、毎回自発的に提出した感想小論のテーマをこぎさみにしたことを反省した。

 学部から大学院まで、都市保全計画から都市設計特論まで、レインボーブリッジがかかったような、あるいは国境や成層圏を超えて宇宙旅行してきたような陶酔感のうちに、本郷キャンパス工学部14号館の2004年度夏学期は歴史を刻んだのだった。息つくいとまもなかった豪華な西村講義聴講の旅はいったん終わった。夏休みいっぱい使って復習してもとうてい時間が足りない「講義要目」および夢中で書きなぐった学部・大学院両ノートの書き起こしと整理が自分を待っている。思えば聴講生になって真っ先にしたことは、『西村幸夫都市論ノート 景観・まちづくり・都市デザイン』4)による年表づくりだった。

 疾風怒涛の両講義は結局のところ、通年講義を半期に短縮した時間的制約から加速された面もあるが、内容的には通年でもとても消化できる質量ではなく、生涯授業が要請される。そして、両講義は西村研究室の風景調査研究等の諸活動と相俟って、新開拓の学問「都市保全計画」に包括されること、そして西村幸夫は理論家、実践家、法律家、歴史家、工学者であると同時に、市民参加を重視する市民的学者であることが深く理解できた。

 しかも都市保全計画授業の後期になって、「あと時間がないので、技法、自分のかかわった日本の事例、海外の事例の3テーマのうち、いずれの順位で聴きたいか、希望を記入してほしい。」と受講生からアンケートを取った結果、回答トップが技法だったのにもかかわらず、あえて海外の都市計画事例に時間を割き、最終回は自身がかかわった飛騨古川の事例でしめくくった。とういことは、工学系にとって最優先しかねない机上の技法に偏りがちなテクニックよりも、実際のヒューマン都市づくりの具体事例に学べという教えであったと思う。技術偏重、技術人間化を厳に自戒していた西村幸夫らしい人生哲学の現れであり、ひるがえって、技法にこだわって考えれば、そうした具現方法が西村技法ともいえよう。

 この西村都市保全計画授業の総括が、終講にあたって受講生に課せられたレポートのテーマに集約されていた。課題はふたつあって、ともに厳しい必須である。

 課題1 講義で触れた都市保全計画に関する事項のうち、関心を持った事項について、情報を収集して、さらに深めて事実を明らかにし、自らの考察を含めて論じなさい。

 課題2 身近ななにげないまちかどであるが、よく見ると歴史の蓄積を有する空間的特色を持っているところが少なくない。たとえば、ちょっとした道路の屈曲や食い違い、突き当たり、アイストップにある祠などである。こうした事例を1件取り上げ、どのような経緯で生まれたかを考察し、変容を跡づけ、現状を評価し、取り上げた空間の将来における保全再生の可能性について具体的に論じなさい。

 最後に正統アメニティについてであるが、英国都市計画法(09年法)に初めてアメニティという語が登場したことを基点に両講義でも幾度か言及され、都市保全計画受講学生からも英国のアメニティ観についての質問が出されるまでになった。

 大学院都市設計特論のプリントでは、「都市計画法の最初からamenityが明記されていた。」として、渡辺俊一の著書からの一節を「都市計画法としての09年法を、その源流ともいうべき公衆衛生法や住居法から分かつ最大の特徴点」(『比較都市計画序説』1985年、p.43)」5)と紹介していた。同書は絶版になっていたので、私は東大図書館で借り、全ページをコピーした。正統アメニティについては、今後西村幸夫に学ぶところがまだまだ多い。

 自主提出の両講義聴講感想小論の終わりにあたり、師である人間西村幸夫に感謝しつつ、ウィーンの建築家カミロ・ジッテの次の言葉6)をかみしめたい。

 「都市計画は単なる技術上の事柄ではなく、最も正しく、かつ最も高い意味において、芸術的な企てでなければならぬ。それは古代においても、中世においても、ルネッサンスにおいてもそうであり、事実、芸術が成育したところでは、どこでもそうであった。都市を拡張し設計する過程が、ほとんど純粋に技術的な関心事となったのは、われわれの数学的世紀においてだけである。」

(注)

1)山に囲まれた伝統の町。04年2月1日、古川町、河合村、宮川村、神岡町が合併し飛騨市として市制施行。

2)雲の分布を調査し、その家全365件のほとんどの文様を描いて、169個にまとめたのが「雲総覧図」。さめぐち型、あなあき型、ゆびさし型、とびぐち型、きんとうん型に分類した。

3)財団法人観光資源保護財団(日本ナショナルトラスト)87年3月発行。私も当時入手して手元においている。

4)鹿島出版会、2000.7。

5)『比較都市計画序説 イギリス・アメリカの土地利用規制』(三省堂)、297ページ。渡辺俊一は1938年生まれ、1961年東大工学部建築学科卒、64年ハーバード大学大学院修了、建設省建築研究所勤務、東工大、筑波大学非常勤講師。現在東京理科大学教授、都市計画学。AMR編『まちづくりとシビック・トラスト』(ぎょうせい、1991.7)の「イギリスとアジアのアメニティまちづくり」執筆。ちなみに同書には西村幸夫の「イギリスの小さな町のまちづくりから」および「シビック・デザインはいかにして向上させうるか──英国シビック・トラストの実験」、私の「シビック・トラスト父娘の旅」および「都市アメニティ」も載っている。

6)Camillo Sitte(1843-1903)の著書『芸術的基本原則による都市計画』の序論から(井上充夫著『建築美論の歩み』鹿島出版会、91.4)p262。


  研究室バーベキューパーティ

2004年7月16日

 「本郷の東大敷地が、江戸時代の加賀前田家の上屋敷だったことは、よく知られている」。これは司馬遼太郎『本郷界隈』1)中の「加賀屋敷」の書き出しである。その加賀藩は百万石の大封をもちながら、幕府への遠慮からことさらに武の印象を抑え、学問を奨励した。その由緒ある本郷東大の2004年7月13日は、前期最後の都市デザイン研究室会議が夕刻から夜10時まで続いた。修士、博士課程学生(大学院便覧はじめ院生より学生と記載されることが多くなった)の中間研究発表に変わりはなかったが、夏休みを控えて参加が多くて満席。クーラーが空転するほどの熱気に、うちわを使う者も現れた。

 最後に、博士課程に在籍し、ブリュッセルの大学院に留学中の女子学生が、「ベルギー雑感」として、首都の都心再生の現場写真を、パワーポイントで映した。歴史都市ブリュッセルのイメージを強化するために、1960年代に中心部に建てられた高層ビルを撤去し、低く建て直す工事が行われているのだった。景観法が成立したばかりの日本にとって、参考になる報告だった。

 そう思って膝を乗り出していると、もう終わりになって、さあ、これから屋上でバーベキューパーティという。10階の屋上テラスに上がった。工学部なのに照明が弱くて暗かった。ばたばたとうちわで炭火が起こされ、暗い中で暑気払いバーベキューパーティが始まった。

 西村教授の提案で、初めて学生が買い出しから焙りまで手がけたということだった。加賀屋敷は、振袖火事で今の丸の内から本郷に移転した。その新屋敷を将軍綱吉がほめたことで、綱吉お成り遊覧5千人パーティに発展した。階級の世であるから、客を同じ身分ごとに集めて宴となる。大工のはしばしまで、相当の席を設けて酒肴を出した。それを「わずか一日の歓を得るために、この藩は戦争そこのけの総力をあげたのである。」2)と司馬遼は書いた。

 その元禄の豪華饗宴の有り様を今や昔とイメージして見下ろす校舎の屋上では、質実剛健な平成東大豚肉40人供宴という対照がおかしかった。バンドが遠慮がちに入った。パソコンの音楽を流したのだった。

 都市デザイン研究室は、「西村・北沢研究室」である。ビールを片手に指導教官の西村教授はもとより、都市デザイナーである北沢猛助教授からも親しく話を聞くことができた。さらに、戦前の都市美協会運動に関心3)を持っている私として、つとに日本の風景計画の立場からその問題に造詣が深い中島直人助手の論考4)に学んだこともあり、親しくあいさつができた。

 そして、研究室の面々はベルギーに戻る女子学生をはじめ、それぞれが帰省したり、東京に居残ったりして、リフレッシュとともにレポートや論文執筆に明け暮れていく。

 秋は研究室の海外研修旅行である。ひとりだけ年齢的に突出している私にとって、聴講生入学後初の海外聴講である。

(注)

1)朝日文庫『本郷界隈 街道をゆく37』(1996.7)「加賀屋敷」の引用はp28。

2)同上書p36。

3)この関心から私は「都市美協会運動論─アメニティの視点から」を、AMR機関誌月刊『アメニティ・ニュース』2003年12月号から連載している。

4)中島直人「20世紀前半における都市美を巡る一連の運動 都市計画に関する思考と都市での実形について」東京大学修士論文、2001年、および中島直人・鈴木伸治「日本における都市の風景計画の生成」『日本の風景計画 都市の景観コントロール 到達点と将来展望』学芸出版社、2003.6、p16-31。


  みちのく大野村東大社会貢献基地

2004年11月25日

 みちのく岩手県大野村で、東大都市デザイン室の村おこしワークショップに参加した。野原卓助手に同行したが、帯島地区班と水沢地区班とに分かれて公共施設に東大基地があった。「都市」を専攻している大学院生たちが、都会とはかけはなれた農村に入って村おこしボランティアに目を輝かせているというのは、見事なバランス感覚教育である。とくに知的偏向をとやかくいわれる東大による、このような村人の中へ飛び込んでの自主活動を報じなかった報道人は怠慢ではないかと思った。

 訪村は10月30、31両日の泊りがけだった。折しも出発直前に国立マンション訴訟が、高裁判決で住民側の逆転敗訴となった。景観利益をめぐる司法消極主義に基づくというが、市民社会の熟成により、風景のコンセンサス・レベルが上がっている潮流に逆行し、しかも景観法の制定・施行の年に、時計の針を逆回したようなこの判決を聞いて、裁判官はバランス感覚を失しているのではないかと失望した。

 法科大学院を雨後の筍のように創設してまで、法曹人を大幅増加させようとしている国のねらいをひとことでいえば、バランス感覚のある法曹人の育成をめざすことではないのか。国立逆転判決のような裁判官が乱造されてはどうなるのか。法科大学院で東大大野プロジェクトのようなバランス教育を行うのだろうか。

 大野村は「一人一芸」をキャッチフレーズにしている。九戸高原の中心部にあって人口7000人足らずの村だ。広さは135キロメートル。酪農と木工の村で、バター、チーズ、ヨーグルト、アイスクリームや木製コップに至るまで手づくりの里である。

 大学との産学協働ならぬ村学協働の村おこしは、6年前からつづいていた。大学といっても文系学生の活動ならいざしらず、工学系の大学院生だけで、村民への活性化アイデア提案、それもコンピュータグラフィックスによる現地での完璧なちらし、リーフレットづくりから、村人とのワークショップの運営まで、表方から裏方まで一切やってのけていた。

 近ごろの若者は、今の教育はと自分たちのことを棚に上げて批判がましい世間においても、学生のボランティア活動は相応に盛んである。しかし、そこにおいては文系学生が企画、交渉、宣伝などを担当し、工学系学生はまちなみの図面化やノートパソコンによる資料づくりに専念していることが多い。その点、大野村の例はたのもしい試金石である。

 大野村へは、東北新幹線二戸駅から車で1時間。少子化で今春廃校になり、地区センターに変身していた小学校に着く。玄関先に手描きイラストの村地図が看板のように立っていた。入り口の若々しい手描き地図は、大学側の提案に応えて、村の高校女生徒らがつくったのだった。近くにそびえる山桜の名木や村に一戸しかなくなった曲がり家の案内板もその手になった作品だった。

 東大基地になっている近くの施設に入ると、広い畳敷きの部屋に座卓が散開し、ひとり、またはふたりが各自のノートパソコンで、提案のディテールと画像手直しの追い込み中だった。野原教官はひとりひとりの肩をたたいて助言していく。筆者も学生側で訪れているので、その仲間に加わり画面を見つめて参加した。都市プランナーやコンサルタントに迫る緻密で斬新な編集作業であるため、ただ見とれていただけの参加だったが、毛布を渡してくれる学生もいて、畳に寝転がって日本の教育と村おこしのことを考えていた。

 したり顔の人は、他大学や文系をも誘い込んで、村内活動の対外活動の強化をというが、工学学徒として自力で文理シナジーの実を上げるこのプロジェクトは、総合的工学構築の道である。もともと都市デザイン研究室は、生産工学と違い、社会工学的に学際に開いた研究室である。

 東大のこのプロジェクトは、毎年数日間ずつ2度も3度もチームで訪れ、村の施設に寝泊りして、万年床もどきの徹夜作業でコンピュータグラフィックスの提案資料を仕上げ、村長も出席する村民との提案ワークショップで、熱心に採用を呼びかけるのだった。会場では、開会30秒前まで幾人もの学生が片隅でノートパソコンに向かっていた。パワーポイントでプレゼンテーションするのに、完璧を期すのだった。

 村内には近年「おおのキャンパス」という名で呼ばれるエキゾチックでハイセンスな産業デザインセンター、宿泊施設、酪農、木工・陶芸・裂き織り体験教室、動物ふれあい館、道の駅、パークゴルフ場などの複合文化エリアが出現した。こうした整備などが効果を発揮し、年間30万人の観光客が集まるようになったという。

 それはそれ、ワークショップでは、好ネーミングの「感農村づくり構想」「風景むらづくり」「味菜館(あじさいかん)周り芸能舞台提案」などが発表された。さらに、散在する白い建物をとらえて「地区カラーにホワイトを」という提案もあった。味菜館は大学側提案で今春オープンした「漬物工房」である。その前庭と裏庭で、南部藩に伝わった日本最古ともいわれる盆踊り「ナニャドヤラ」、重要無形文化財の舞い「えんぶり」や神楽などの伝統芸能行事をという提案である。

 翌日、野原教官と味菜館を訪れた。おいてあったパンフレットを見ると、「施設概要 設計アドバイザー」として「東京大学工学部都市工学科 都市デザイン研究室」の名が印刷してあった。

 次いで赴いたのが、林郷・権谷地区の収穫祭だった。この収穫祭も大学側の提案で実現した行事だった。佐々木村長もにこにこと出席した地区センターの卓上には、漬物がずらりと並んだ。

 帰途につく日、村長と大学側との恒例ミーティングがあった。この会合は首長とさしむかえで、教官からは大学側提案の総括説明、学生ひとりひとりからは自分の提案と意見を発言する。村長も逐一答えていく。臆せず堂々と意見を述べる学生たちをみて、社会に出ればそうして首長や要人とさしではなかなか会えないことを思うと、このセッティングの持続は貴重に思われた。

 パソコン機器類を担いだ登山青年風学生たちと、夜の二戸駅から新幹線に乗った。居眠りと交差するなかでの車中談義で、「大野村は楽しい。村人はやさしい。またいきたい」のフレーズが異口同音に飛び出す。偏差値教育の終着のようにいわれる東大の人間的本領と底力をそこにみる思いがした。筆者はまた10年前に二戸市金田一ホテルにおける、まちづくり市民財団主催の「二戸カシオペア物語」イベントで、シビック・トラストについて講演したときのことを反芻しながら、学生たちの言葉を聞いていた。カシオペアは、当時の広域行政エリア内市町村の位置を星座カシオペアに見立てての呼称だった。大野村も星座に入っていたのではなかっただろうか。

 翌日、研究室で中島直人助手に大野訪村の話をして、別の遠地ワークショップの実例として広島県福山市鞆の浦の実践資料をもらった。とくに研究室有志発行の『鞆雑誌』は、見ごたえがあり、今は鞆の浦の過去から未来までのくらしをテーマにした『鞆絵本』づくりの最中ということだった。

 都市デザイン研究室有志という形のいわば「バランス感覚フィールド」は、その他富山県八尾市、福島県喜多方市、岐阜県白川村など数箇所で行われている。複数箇所参加の学生も多く、修士論文執筆の時間を割いてまでの自主的積極参加は評価したい。

 東京大学憲章前文:新しい世紀に際して、世界の公共性に奉仕する大学として・・・諸地域の均衡のとれた持続的な発展(など)に、その教育・研究を通じて貢献することを、あらためて決意する。(平成15.3.18制定)


  Machizukuri─都市デザイン研究室ハノイ旅行

2004年12月13日

 2年に1回の都市デザイン研究室旅行の今回は、2002年の北京に次いでハノイ行きとなり、11月28日成田発、12月2日帰着だった。別ルートで現地入りした組を合わせて参加は23人。教授西村幸夫、助手遠藤、中島、野原の教官陣に22人の院生と筆者の23人だった。それにハノイ帰省中のリー・クウィン・チー院生と合わせ、24人の現役東大陣になった。研究室旅行は、研究室出身もしくは現役留学生の本国を選び、その留学生への鼓舞と地元からの評価を促進する願いが込められている。成田から4000キロ、4時間、気温21度から26度の好天つづきだったハノイにおいて、西村幸夫大著『都市保全計画』を世に問うた歴史的2004年は、その海外への架け橋で最後を飾ったことになる。

 この記述にあたっては、恣意的考察を防ぐため、帰国後すぐ参加院生あてにアンケートをつくり、旅行幹事を通じて配信し、さらにフエの水害地を踏破してきた院生の手記の寄稿を求め、ともに掲載してバランスを期した。

 西村幸夫の都市保全計画講義は、情熱、濃縮、総合であり、「歴史に学べ」「海外に学べ」「市民スタンス」「生活環境ありきの都市計画」などが脊梁である。とすれば、西村以心伝心の都市デザイン研究室のハノイ旅行が、親睦を含めそうした特色をにじませた雰囲気だったことはごく自然である。

 交流会風景、西村教授のレクチャー

 情熱はハイライトイベントである東大・ハノイ工科大学合流会で会場一杯にたぎった。使用言語はオール英語で、東大で博士になって現地在住の女性研究者ファン・チュイ・ロアンがベトナム語に通訳した。壁際には工科大学生の都市デザイン設計提案などが掲示され、コの字型に着席した後ろには、聴講の学生たちがすわり、70人規模の集会になった。

 まず西村教授が「東大の都市計画教育」についてのレクチャーを「Machizukuri」のローマ字を使って行った。世田谷区羽根木公園かいわいの街角や森のまちづくりから、光が丘、神田川周辺、秋葉原、万世橋、町屋、さらに川崎での事例に次いで、大規模開発より小規模開発に対するまちづくりの必要性など、都市保全計画の具体的手法を濃縮して訴え、住民協議会や地域教育に至る体験と洞察を力を込めて発表した。まちづくりは英語に訳すのが困難で、結局ローマ字として、世界へ輸出されていく一瞬間がそこにあった。

 続く院生側のコンピュータグラフィックス使用のプレゼンテーションは、10分以内の時間制限で、岡村祐が「都市デザインに対する私たちの取り組み」を概説し、黒瀬武史が喜多方、阪口玲磨が鞆の浦と中国西安近郊ニュータウン開発指名コンペ、大谷剛弘が大野村の実践について、エネルギッシュに報告した。会場へ到着するまでマイクロバスの中で英文の仕上げに余念がなかった成果が、西村教授をして「研究室の院生がこれほど英語達者とは思わなかった」と驚かせた。これをベトナム語に通訳したのは、チー院生だったが、学友の発表とあって友情を込めての通訳で会場をほぐしていった。

 これに対して工科大学側は、クウォン建築・都市計画教授の旧市街住宅の特色である細長住宅の再生についてのレクチャーで、キャンパスにその実験ハウスを建てて研究している旨の詳細報告が印象的だった。工科大学側の学生プレゼンテーションは、大学院生でなく学部4年生がクウォン教授と同様に、コンピュータグラフィックを使って行った。Machizukuriという語との遭遇を体験したこの学生たちが、将来に向けてより理解を深めてほしいと思った。ともあれ、筆者はこうしてMachizukuriが、都市保全計画が目の前でベトナムに入っていく瞬間を見届けたことになる。

 総合についていえば、成田からそろってハノイへ直行する本隊のほかに、ベトナム戦争1)において、メコンデルタで米地上軍に対して神出鬼没のゲリラ戦で勝利した南ベトナム解放民族戦線の兵士さながらに、中部ベトナムの水害まっただなかの世界遺産古都フエを膝まで水につかって突破し、長距離バスでハノイ入りした二人組、中国国境近くサパの少数民族の村を訪れて列車でハノイ入りした院生、台北経由を選んだ幾人もの院生といった具合に、個性的ツアーを経て北爆2)にも焼け残ったホアンキエム湖にほど近いホテルに全員集結したのだった。

 ホアン社長(左)と西村教授

 さらに総合といえば、両大学交流会のあった11月30日の午前中に、西村教授がバンコクにあるアジア工科大学助教授時代に助手を務めていたホアン氏が、その後ハノイの実業界で頭角を現し、3年余り前に立ち上げた建築設計会社が高度成長経済にフィットし、見る見るうちに有数のカンパニーに成長した。そのオフィスでホアン社長のプレゼンテーションがあった。工科大学での交流会にもホアン・プレゼンテーションの会場にも、ホー・チ・ミンの胸像と国旗である金星紅旗が飾られていたことで、いまもって社会主義国であることを改めて知らされた。

 高層住宅群やリゾート開発について、映像で詳細に説明されたが、そうした開発驀進中のホアン社長をして、まどろっこしいMachizukuriを総合的に取り入れさせる日の早期到来を念願せざるを得なかった。同社長はロンドン大学で博士号を得たアーキテクトであるが、修士論文において、ハノイ1000年の歴史的環境のなかでも知られたホアンキエム湖北側の旧市街「三十六通り」3)の保全を論じたということであり、開発驀進からMachizukuriに移行する手腕に期待したいのである。このあと、工科大学交流会までの時間に市内のシルク村を視察、荒廃気味の環境にたたずむ古堂の前で記念撮影した。古堂の前でというのは教授西村の選択だった。歴史環境と庶民性を大事にする西村哲学の表れである。

 

 

シルク村の古

 写真左上:堂前で記念撮影

    右上:細街路の集合住宅見学

    右下:低高層住宅の建設現場見学


 

 両大学交流会の前日29日には、マイクロバスで市内を見学した。チー院生のほかに、その先輩で東大博士課程を修了したチャン・ラン・アンティも同行して専門的な質問に答えていた。見学は50年代、60年代、70年代の集合住宅から高層住宅の建設現場に及んだ。そして夜は水上人形劇、ジャズクラブなど多方面に散ってハノイ文化を楽しんだ。

 楽しんだといえば、会食の団欒は毎回威勢がよかった。ビール党がほとんどだったが、その乾杯の音頭を「モッ、ハイ、バー、ジョー!!」といって、求心的にグラスを合わせ、カチンと音を立ててからぐいと飲む。初めは「ワン、ツー、スリー、ジョー!!」で練習した。ただし若者の間での乾杯ということだった。

 ベトナム料理は、中国料理のように油濃くなく、生野菜もふんだんに使って日本人の口によく合うため、ベトナム版うどん(平たいきしめん様)のフォーや春巻きのネンをはじめ、全員が多くの料理を堪能した。

 深夜ハノイを発つ日の12月1日、朝からバスで3時間、まぶしい日差しの下に広がる世界遺産ハロン湾を訪れた。桂林に似た島々の風景をめでながらのクルージングパーティもまた、「〜ジョー!!」の一斉発声で盛り上がった。

 

世界遺産ハロン湾クルージング

 

 

 

 

 

 

 

 ベトナムを総合的に知るには、元来のベトナム国だったハノイを中心とした紅河デルタの一帯だけでなく、その南進政策で併合されていったオウムのくちばしインドシナ半島南端までの南ベトナムにアクセスすることと、中国、フランス、日本の支配史4)についての理解も必要である。その意味で、少なくともフエの台風水害現地を踏破してハノイ入りした小林・黒瀬院生組の体験は貴重である。この体験は水害地のインフラ対策をはじめ、都市保全計画の研究にも役立つことと期待される。

 水中に孤立する世界遺産フエの王宮などを眺め、膝下水中徒歩、有料ボート、バイクタクシー、列車不通による長距離バスを乗り継いでハノイに到着後、そのひとりが両大学交流会で喜多方のまちづくりについて発表したわけで、高揚したプレゼンテーションになったのは、水害地突破による濃縮されたベトナム体験の感慨を母国日本への思いに重ねたからではなかろうか。

 ここに黒瀬院生の「フエ洪水突破記」と題するルポを紹介して、今回の研究室旅行の記録を多層化しておきたい。スペースの関係で、記事はかなり割愛せざるをえなかった。報道写真として通りそうな多くの被災状況写真についても、僚友を写した1枚にしぼらざるをえなかった。

 

〔フエ洪水を踏破、浸水の世界遺産旧市街を行く 黒瀬武史〕

 11月25日、真夏のような熱帯のホーチミン市を飛び立ち、中部最大の都市ダナン空港に到着したのは、午後9時過ぎ。小雨だった翌日、朝早くから町並みが世界遺産となっているホイアンへ。そこで、中部地方の洪水の現実を知った。川があふれ、川沿いの道路は完全に水没していた。それにもまして驚いたのは、手漕ぎボートを出して、観光客を乗せている地元のおばちゃんたち。天災まで観光に生かしてしまう逞しさ。僕らもボートに乗った。

 27日はダナンを9時過ぎにバスで出発し、昼前にはフエに着くはずだったのが、ダナンとフエの間にある交通の難所ハイヴァン峠で土砂崩れが多発し、道路は塞がっていた。大型トラックやバスが入り乱れる大渋滞が発生し、フエ到着は夕方になった。

 ちなみにこのハイヴァン峠では、日本のОDAによりトンネルを建設中だった。無駄遣いも指摘されるОDAだが、少なくともここでは重要なインフラ建設に役立っているようだ。

 水没道路を手漕ぎボートで移動する小林有吾院生(ホイアン)黒瀬武史写す

 ベトナムを代表する古都フエも、洪水により大きな被害を受けていた。世界遺産がある旧市街はほぼ全域が浸水し、僕らは浸水した誰もいない王宮を見学。帰国してみたロイター通信の水害記事「ベトナムの洪水で死者40人、世界遺産も崩壊の危機」には、まさにこの日のフエの王宮が掲載されていた。そして、被災地の治水をはじめとした社会基盤の整備がまだまだ不足していることを再認識した。

 28日は雨の中、郊外の遺跡をバイクタクシーで回った。池のような道路を走り続け、下半身は泥だらけ。全面運休の列車にかわって便乗値上げした15時間夜行バスを使って、やっとハノイに着いた。

参加院生アンケート(五十音) 

(1)最も印象的だったこと、(2)ハノイ工科大学交流会の感想、(3)ホアン建築設計会社社長のプレゼンテーションの感想、(4)その他

安藤義和
(1)ハノイの旧市街。街にパークを感じた。その町のパワーが過ぎ去ってから、ロマン主義のもとで再構築された、こぎれいな景観からは味わえない、ある意味での現実の美しさだと思う。万国、ジャカルタあたりだと、もう消えかけているし、ハノイもあと10年もすると、こざっぱりとしてしまうと思うが、今回このタイミングで行けてよかった。

(2)その後の懇親会に学生がこなかったことからもうかがえるが、学生と先生との間に歴然とした区分があるように感じた。

(3)「行け行けドンドン」という印象だった。住宅の供給に対する量的需要に対し、エンジニアの数が少なく、猫の手も借りたい状況ではないか。開発志向の計画を批判する意見もみられたが、今はそういう時代だと思う。10年〜15年後に市街地の空洞化が問題になれば、そちらに重点をシフトすればよい。あのしたたかな社長ならその辺も心得ていよう。むしろ郊外に開発が集中していて、「旧市街に都市計画道路を通す」ことをしないだけ、日本よりマシだと思った。

(その他)一人で行ってきたサパ(Sapa)の町。フランス植民地時代、夏の避暑地として開発され、今はバックパッカーの人気スポットとなっている。ここを拠点に点在する少数民族の村をトレッキングする。今となっては有名になり過ぎ、どのホテルもバックパッカーで満員。寄る村々で少数民族からしつこくお土産を売りつけられたが、トレッキングで歩いた少数民族の村々は美しかった。

小林有吾

(1) フエなども訪れたが、いちおうハノイに限定して答えたい。36番地区におけるプロジェクト。大規模開発の多いベトナムにおいて、工科大学側説明にあったインナーシティ問題に関するプロジェクトは印象的。ぜひ始動してほしい。しかし、ベトナムも資本主義化していると思われるほど、土地の民有化が進み、貧富の格差が広がっているという。諸外国同様、費用面で頓挫するのではないかと心配するが、エキサイティングなプロジェクトであるのは、間違いない。

(2)我々の学校のプレゼンテーションが非常にもったいなかったと感じる。もっとうまく見せることが出来たのではないかと。

(3)見せられた絵はきれい。3Dの発達が目覚しいと感じた。しかし模型も重要では?と感じる今日この頃である。ベトナムでは材料が手に入りにくいとも聞いたが……。所員を100人以上抱えているのは、活気があってすごい!

(4)総じてベトナムでは女性ががんばっていた。英語をしゃべるのも女性が多く、店を切り盛りしているのも女性が多く、男性はだらだらしていた。働いている人たちは昼見ないので、必然的にそうした人たちだけを見てしまうのか。

倉橋宏典
(1)倒されるほどの人のエネルギー。生活感。

(2)学生と話す機会がなくて残念だった。

(3) 高層ビル群による住宅開発やリゾート開発は、どうも腑に落ちない所がある。パースやスケッチはかっこいいのだけれども、それが果たして例えば世界遺産であるハーロン湾の開発に適しているのか、もっとやりかたがあるはずだと感じてしまう。クライアントが誰で、どのような仕組みで事業が行われるのかはよく分からなかったが、一度は日本も歩んできた開発指向の歴史を今歩んでいるように感じた。そして、日本のようにその後やっと本当に大事なものは何か気付くのだろう。それにしても、あの社長、西村先生のアジア工科大学時代にはハノイ旧市街地の保全をテーマにしていたというから驚きだった。

(4)インナーシティ、保存活用されている住宅を見て、うなぎの寝床形の町家は日本だけではないということが新たな発見であった。日本もやっぱりアジアなんだなと。

藤本ふみ

(1)路上での活動。モーターバイクの激しい交通流。また、行商も含め「小さな店」で、みんな家族のように食事をとっているところ。

(2)都市計画・都市デザインという学問を確立していこうという使命感に燃えている助手さんたち。草創期の使命感と高揚感。かえってきてから、それでもやはり私達はやるべきことがたくさんあると考えた。

(3)やはり翌日の観光と合わせて、ハロン・ベイの開発が印象的。ここでも若い向上心あふれる真剣な力を感じた。

(その他)毎晩語りながらの飲み会が楽しかった。

(注)

1)1960年〜75年の北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線とアメリカ・南ベトナム政府、周辺諸国を巻き込んだ戦争。ベトナムが勝利し、76年南北ベトナムは統一して、ベトナム社会主義共和国となって現在に及ぶ。このベトナム戦争で日本は米軍の補給物資の特需により戦後最大の不況を好況に転じた。半面、反戦運動が高まり、市民運動を根づかせた。

2)ベトナム戦争中の1972年、米軍によるハノイ大規模空爆のことをいう。投下爆弾は広島原爆の4個分にあたり、ハノイは都市機能の三分の一が破壊され、市民千数百人が亡くなり(伊藤千尋『観光コースでないベトナム─歴史・戦争・民族を知る旅』高文研、1995年)、インドシナでアメリカ軍が消耗した砲爆弾の総量は、少なく見積もっても、朝鮮戦争時の五倍以上、第二次世界大戦時の約二・四倍(吉沢南『ベトナム戦争と日本』岩波ブックレット1988年)であった。沖縄の米軍基地から爆撃機、横須賀から空母が出撃し、反戦運動が高まった。

3)ホアンキエム湖西北岸一帯をいう。11世紀に王がここを首都にしたとき、新たなまちづくりをした。周辺の住民を呼び寄せ、農民、職人、商人の3地区に分け、市街を36通りに区画整理したのが、この地区である。東大宿舎になったクラシックホテルはここに隣接し、ロケーションは至便だった。

4)古代からたびたび中国王朝に支配され、中国文化の強い影響を受けた半面、支配に抵抗した長い歴史がある。19世紀後半にはフランスが植民地とし、1940年から45年までは日本軍が侵略、支配した。ベトナム側は東大訪問団に対して、対日歴史認識についての発言はしなかったが、その傷は癒えていないことを認識すべきであろう。